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島左近~想定外の連続!関ケ原。それでも戦人は諦めなかった

2018年11月22日 公開
2022年01月27日 更新

谷津矢車(作家)

左近の心算

この戦は、徳川家康による上杉家討伐に端を発している。

豊臣秀吉亡き後、徳川家康は天下への野心を示した。それまで秀吉によって禁じられていた大名間の縁組を推進し、前田利家に詰問されるという一幕すらあったほどであった。その時はさすがに首を垂れるしかなかったようだが、利家が死してからは、もはや徳川の独断を止めることのできる者はいなくなっていた。

五大老である上杉はそんな徳川に反感を募らせていたらしく、国許に戻り戦支度をしていたところ、逆に目をつけられた。

徳川からすれば、上杉討伐もその己の威を全国に示すためのものであったろう。諸大名に参集を命じ、自らも東国へと向かった。

だが、上方を離れたところで、徳川に不満を持つ勢力が謀議を持った。その中の主導者の一人に、左近の主君である石田三成もいた。

三成は当時、事実上の失脚状態にあった。三成に不満を持つ大名たちに襲われ、上方を騒がせたことが不届きとされ、役目をすべて解かれて佐和山城に引きこもっていたのである。それだけに、三成には謀議を発動させるだけの時があった。

突如、左近はある謀議に呼ばれた。大谷刑部や宇喜多秀家といった錚々たる大名たちが集まる中、徳川と戦をすることと決した、ついては戦の陣立てを決めよと三成に命じられた。

心が昂らぬといえばうそになる。あの徳川を相手に采配を振るえることなどそうはない。口角が上がりそうになるのをこらえながら、錚々たる諸将の視線を浴びつつ己の心算を披露した。

徳川軍は今のところ十万を数える大勢力となっているが、西日本の大名は家康の許に達していない。そこで、関東へと向かう道に関門を敷いて西国大名を足止めし、こちらの味方にするべく説得するとともに、上方にいる家康の味方勢を一掃しておく。また、三成らの謀反を知った家康はいつか引き返してくる。これを防ぐために伊勢と美濃に軍勢を置き進軍を阻む──。

小牧・長久手の戦例を参考にした策だ。

宇喜多秀家から異論が上がった。それでは勝てぬと。確かに宇喜多の言には頷かざるを得なかった。小牧・長久手においては双方が攻めあぐね、結局戦では決着がつかなかった。

だが、それでも左近は己の言を翻さなかった。

『いや、問題ありますまい。我らの手の届く処に、玉がござる』

玉? 皆が訝しがる中、王手を打つ心持で左近は口を開いた。

『秀頼公でござる』

上杉討伐も、豊臣秀頼公の世を乱す逆賊を討伐するという大義名分が掲げられた。すなわち、権勢者の徳川家康と雖も、秀頼公の権威を否定することはできない。秀頼公は大坂に──、徳川よりも近いところにいる。

三成は顎に手を遣った。

『なるほど、つまり、秀頼公に一言、徳川は賊軍である、と宣していただければ、すべてが終わるということか』

左近は我が意を得たりとばかりに口角を上げた。

小牧・長久手の戦のように膠着を作ると同時に上方の徳川勢力を一掃し、西国大名たちを味方にした上で秀頼公をこちら側に取り込む。それが島左近の秘策であった。もちろん、戦で決着をつけてもよいが、両軍主力の衝突の前に大勢が決すればこれ以上のことはない。
 

次々に起こる不可解事

だが、ことはそう簡単には運ばなかった。

上方の徳川勢排除に時が掛かりすぎた。特に伏見城に籠る徳川勢は手強く、20倍にもなる兵力差をものともせず10日余り戦った。敵ながらあっぱれと褒め称えるべきところだが、このせいで伊勢、美濃への進出に遅れが出たのも事実であった。

それでも伊勢、美濃の防衛陣構築は完成した。前線を構築する犬山城や岐阜城の背後にある大垣城に入り、左近たちは徳川方の動きに目を配っていた。

だが、この時点で左近は安心すらしていた。五大老の一角である毛利を味方に引き入れることに成功したからだ。あとは、伊勢、美濃の防衛陣を構築したまま膠着させ、敵の隙を狙って決戦を仕掛けるなり、秀頼公をこちらに引き入れるなりすればいい。徳川方には豊臣恩顧の大名たちも数多くいる。もしも秀頼公を味方に引き入れたならば、こちらになびかずとも、必ずや揺らぐ。さすれば徳川は丸裸だ。

だが、池田、福島といった豊臣恩顧の徳川先鋒たちによる迅雷のような進軍によって、岐阜城を要とする美濃の防衛陣が崩れた。

これをもって当初の計画は頓挫し、新たな戦図を描かなくてはならなくなった。そんな中、さらなる動揺が走った。

ふらふらと近江近辺を進軍していた小早川秀秋が、大垣城の背後に当たる松尾山に陣を張ったとの報せがもたらされた。

もしも小早川が徳川と内通していたとしたら、挟み撃ちに遭う危険がある。また、松尾山は京へと向かう中山道を見下ろす位置にあり、小早川は退却路を塞いでいるとも取れた。

本来は大垣城に拠って戦うという道もあったが、小早川への懐柔を進めつつも松尾山の麓──すなわち、関ケ原に布陣をするという道を取った。徳川家康が、天下一の野戦の名手であると知りながら、だ。

大垣勢の多くが関ケ原に移動する中、さらなる不可解事が起こる。徳川勢が毛利軍の陣地である南宮山を素通りし、関ケ原を睨む桃配山に陣を張ったのである。

普通に考えて、敵陣と敵陣の間に陣を張る馬鹿はいない。毛利勢と徳川の間で何らかの密約がなされたか──。そう歯嚙みしたものの、もう遅い。

優位を築くことができなかった。これが側近たちの態度を硬化させ、秀頼公は未だに旗幟を鮮明にしていない。このまま静観の構えであろう。

かくして左近たちは、戦で活路を開くしかなくなった。

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