※本記事は、童門冬二著『勝海舟の人生訓』より一部を抜粋編集したものです。
勝海舟という男は、西洋の学問を学んだから、かなり合理的な人物である。日本人的なウエットさはあまりない。その考え方や、感じ方や、行動はヨーロッパ人なみである。そういう意味では、彼の人間関係はさばさばして、さっぱりしたものだった。が一面クールであり、冷たいという印象も受ける。
ことに、彼の上層部に対する見方は厳しく、およそ能力のない者が高い地位についていると、ずけずけ皮肉を言った。彼にとっては我慢がならなかったからである。アメリカの例に比較して、日本というのは、世襲の悪い制度で無能力者を高い地位につける、という悪習があったからだ。
そんな勝海舟が、たった1人だけ形だけでなく心から忠誠心をもった人物がいる。14代将軍の徳川家茂である。勝は不思議にこの家茂だけは悪く言わない。非常に情け深い優秀な将軍だ、と常に誉めていた。
というのは、家茂もまた勝を信頼していたからだ。勝は家茂を軍艦に乗せて海軍の必要なことを説き、神戸に海軍操練所をつくってもらった。また日本最初の艦隊行進に家茂を乗せ、大いに喜ばせた。
この艦隊行進では、幕府の軍艦だけでなく、各藩がもっていた軍艦を全部並べて、走らせた。こんなことは日本始まって以来のことなので、家茂も喜び、勝も大いに面目をほどこした。この時、嵐がきて、船の中が騒ぎになり、家茂の家来達がああだこうだと勝に指示しようとした。その時、家茂が、
「船長は勝である。私を含め、すべての人間が勝の命令に従わなければならない」
ときめつけた。
勝は感動し、終生家茂に好感をもち続けた。
勝が一橋慶喜に命ぜられて、長州に和平の談判に行ったのは、その家茂が死んだ直後である。徳川家茂は慶応2年(1866)7月20日に死んだ。年はまだ僅かに21歳だった。彼の妻は言うまでもなく孝明天皇の妹和宮である。和宮は将軍の妻になったが、妻になった日から京都のことを忘れた。徳川家の一員として最後まで家茂に尽くした。
家茂が長州征伐軍の陣頭指揮にあたるため、大坂に向かう時、
「土産に何を望まれるか?」
と聞くと、和宮は、
「なつかしい京の錦がほしゅうございます」
と答えた。家茂は、大坂に着くと、すぐ京都に人をやって和宮への土産にする錦を買い求めた。が、その錦を届けたのは、生きた家茂ではなく、骸となった家茂であった。和宮は悲嘆のあまり、この時歌を詠んだ。家茂への慕心が切々と表れている。
うつせみの からおりごろも なにかせん
あやもにしきも きみありてこそ
こういう君臣の関係があった後に、勝のもっとも嫌いな一橋慶喜がトップになった。そして、勝にああしろこうしろと命令するのである。だいたい、長州に談判に行くこと自体が馬鹿馬鹿しい仕事だったが、慶喜はさんざんに勝をおだてて、この役につかせた。
普通、今だとこんな役を命ぜられた人間は、ふくれ返るに違いない。それにまだ、先代のトップの愛情が忘れられずに、悲嘆の底にいる。その悲嘆の情を汲みとることなく、いきなり嫌な仕事を押しつけるのは、普通のトップならやらない。が、一橋慶喜はそれをやる男である。情にかられる人間だったら、こういう役を押しつけられれば、
「冗談じゃありません。他の人間にやらせてください。私は、まだ先代が亡くなられた悲しみから抜け出られないのです」
と言って、くってかかるだろう。
勝はそうしなかった。彼は、
「先代を偲ぶ心というのは感傷だ。仕事とは別なものだ。おれは将軍という職に仕えているのであって、家茂様という個人に仕えたのではない。そこをはき違えてはならない。今の上司は慶喜様である」
と割り切った。無理に自分にそう言いきかせて、嫌な任務にもついたのである。この辺は、今の私達が大いに学んでいい。いたずらに先代への思慕の情に溺れて、嫌いな人間がトップになったからといって、先代と比較しながらことごとに反発したり、あるいはいきがってつっぱったりするのは賢明ではない。
勝が言うように、
「どんな嫌な奴でも、一旦トップの座についた以上は、その人間に仕えるのではなく、その役職に仕えるのだ」
という心構えは大いに参考になる。
更新:11月21日 00:05