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神保修理~悲運!スケープゴードにされた開明派の会津藩士

2018年02月21日 公開
2022年07月05日 更新

2月22日 This Day in History

会津若松城
会津若松城
 

会津藩士・神保修理が切腹

今日は何の日 慶応4年2月22日

慶応4年2月22日(1868年3月15日)、神保修理が切腹しました。幕末の会津藩士で、開明的な視点の持ち主として知られ、藩主・松平容保から篤く信頼された人物です。

神保修理は天保5年(1834)、会津藩軍事奉行添役で家老の神保内蔵助の長男に生まれました。諱は長輝。神保家は会津藩内でも名門で知られ、修理は幼い頃から学問に優れ、藩校・日新館でも秀才で知られていました。

嘉永6年(1853)の黒船来航時に修理は20歳、安政7年(1860)の桜田門外の変の時に27歳。幕末の激動を若い頃に体感します。ちなみに桜田門外の変の時に山本覚馬は33歳。覚馬は修理よりも6歳年上でした。山本覚馬は2度の江戸遊学で佐久間象山や勝海舟と接し、真の攘夷を行なうためには国を開き、西洋の文物を取り入れて国力をつけるべきという考え方に至りますが、修理もそれに近い考え方を持っていたようです。覚馬の影響があったのかはわかりませんが、国許にいてそうした考え方を持てたのは、相当柔軟な発想のできる人物だったのでしょう。 

文久2年(1862)、修理は京都守護職に就任した藩主・松平容保に従って京都に赴くことになりますが、おそらくその直前に、軍学者の井上丘隅の娘・雪子と結婚。仲介したのは公用人の野村左兵衛で、野村も京都で活躍する人物です。

上洛した修理は、容保の傍らで軍事奉行添役を務め、国事に奔走しました。文久3年(1863)の8月18日の政変では、藩兵を統括して活躍したことでしょう。元治元年(1864)には軍事取調兼大砲頭取の覚馬も上洛していますので、2人の接点は多かったでしょうし、同年7月の禁門の変でも、協力して長州勢を退けたはずです。

注目すべきは慶応2年(1866)9月頃、覚馬は最新武器の調達と眼疾の治療を兼ねて長崎に赴きますが、修理も藩兵組織と教練方法の西洋化のために長崎視察を命ぜられました。目的も近い修理と覚馬は、ともに行動することも多かったのではと想像できます。修理は長崎において、西国の志士たちとも交わりました。その中には長州藩の伊藤俊輔(博文)もおり、国際情勢を踏まえた修理の見識を、高く評価したといいます。また慶応3年(1867)2月には、土佐藩と和解し始めていた亀山社中の坂本龍馬と面会、龍馬は長府藩士の三吉慎蔵宛ての手紙に「会津ニハ思いがけぬ人物ニてありたり」と修理の見識を褒める内容を書いています。

そんな修理が長崎から京に戻るのは、大政奉還が行なわれ、さらに12月9日の王政復古の大号令を受けて、会津藩が大坂城に退去した頃のことでした。修理は会津藩をはじめとする旧幕府側と薩摩が衝突するのを避けるべく、覚馬や広沢安任(公用方)らと奔走します。また修理は、松平容保に非戦恭順の方針を説き、前将軍徳川慶喜にも、江戸に戻って善後策を講じることを進言しました。「今は無益な内戦を行なっている場合ではない」という認識からで、この点は覚馬と一緒です。

しかし、修理は藩内の主戦派から睨まれました。 修理の説得もむなしく、慶喜は主戦派を抑えられずに京都への進軍を許し、鳥羽伏見の戦いが勃発。修理は軍権を握る立場ですので、出陣して戦いました。しかし戦いは旧幕府軍に利なく、しかも新政府軍が錦の御旗を掲げたことで、会津らは賊軍とされます。

敗れた旧幕府軍は大坂城に集結しますが、肝心の徳川慶喜は将兵を置き去りにして、幕府軍艦ですでに江戸に向かっていました。しかも会津藩主・松平容保を無理やり同行させていたのです。この事態に、敗残の上、置いていかれた会津藩将兵は激昂しますが、藩主を罵るわけにはいきません。 そこで怨嗟の的となったのが、修理でした。

「殿が江戸に向かわれたは、修理が恭順を説いたからだ」
「修理は長州の者とも親しいらしいではないか」
「この戦に負けたのは修理のためぞ。薩長の奴ばらと気脈を通じていたのであろう」

修理はスケープゴートにされたのです。 

江戸に戻った修理に、日に日に処罰の声が高まっていることを知った藩主容保は、修理の身の安全を確保しようと、上屋敷に謹慎させますが、その後、他の者によって下屋敷に移され、「藩命」と称して切腹が言い渡されます。修理は容保との路面を望みますが、それも容れられないとわかると、偽りの命令を承知の上で、潔く切腹しました。

切腹の前日、修理は勝海舟に詩を贈っています。

「一死もとより甘んず。しかれども向後奸邪を得て忠良志を失わん。すなわち我国の再興は期し難し。君等力を国家に報ゆることに努めよ。真に吾れの願うところなり。生死君に報ず、何ぞ愁うるにたらん。人臣の節義は斃れてのち休む。遺言す、後世吾れを弔う者、請う岳飛の罪あらざらんことを見よ」

岳飛は中国の南宋時代に無実の罪で落命した忠臣でした。 修理、享年35。

修理の墓は港区白金の興禅寺にあります。

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