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西郷頼母と幕末の会津藩

2017年04月28日 公開
2022年07月05日 更新

4月28日 This Day in History

会津鶴ヶ城

今日は何の日 明治36年4月28日

幕末の会津藩家老・西郷頼母が没

明治36年(1903)4月28日、西郷頼母が没しました。幕末の会津藩家老で、藩主・松平容保の京都守護職の継続については一貫して批判的であったことで知られます。

頼母は文政13年(1830)、会津藩家老・西郷頼母近思(ちかもと)の嫡男として若松城下に生まれました。幼名、龍太郎。諱は近悳(ちかのり)。通称の頼母は世襲名です。号は栖雲(せいうん)、八握髯翁(やっかぜんおう)などとも称しました。

西郷家はもともと藩祖・保科正之と同族で、代々家老職を務める家柄でした。頼母の父・近思は江戸詰家老を務めています。ちなみに西郷氏の祖は九州の菊池氏であるとされ、南北朝時代の武将・仁木義長が三河守護になる時に、仁木氏に従って三河に移ったのが頼母の祖となります。九州に残った西郷氏には薩摩の西郷氏もおり、そうした意味で頼母と西郷隆盛は遠い親戚ともいえます。

頼母は幼少の頃より学問を好む一方、剣は一刀流溝口派、また御式内と呼ばれる体術(後の合気柔術)を極めました。 父が江戸勤務であったため、頼母も江戸で暮らすことが多く、22歳の時に番頭、文久2年(1862)に33歳で家老職を継承します。その直後、藩主・松平容保に幕府より京都守護職就任の要請が来ました。

この時、頼母は留守家老として国許にありましたが、国家老の田中土佐とともに急いで江戸に出府し、容保に京都の情勢は容易ならざるものであり、守護職就任は辞退すべきと進言しました。これに対し容保は藩祖・保科正之の家訓を挙げ、君臣ともに都を死に場所にする覚悟を示します。容保の言葉に藩士一同涙しますが、おそらくひとり頼母のみは同調していなかったでしょう。頼母にすれば自分は保科家の一族であり、他家から養子で入った容保に会津藩の運命を簡単に決められては困るという意識があったと思われるからです。

結局、容保は守護職に就任して京都に赴きますが、頼母の同行は許されませんでした。ところが翌文久3年(1863)、頼母は許しを得ずに上洛して、再び容保に辞任を勧告します。これが容保の怒りを買い、国許に戻った頼母は家老を辞職して、城下から離れた長原村に蟄居します。頼母は幽居を「栖雲亭」と名づけました。

頼母が表舞台に再び世に姿を現わすのは、慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いで、会津藩ら旧幕府方が新政府軍に敗れた後のことです。 家老に復帰した頼母は江戸藩邸の後始末を行ない、容保は恭順することに藩論は決定しますが、新政府軍はあくまで会津を討とうと、恭順を認めません。そこで頼母は白河口総督に任ぜられ、奥州の玄関口にあたる白河城の死守を命じられるのです。

白河城には会津藩だけでなく、奥羽列藩同盟による各藩の兵や旧幕府軍も駆けつけ、兵力では攻撃側の新政府軍を圧倒しましたが、5月1日、敵の最新式火器の前に白河城は失陥。それから7月までの2カ月間、会津藩と東北諸藩、旧幕府軍は何度も白河城奪還を試みますが、ことごとく失敗します。結局、白河城を会津が押さえるか、新政府軍が押さえるかで、東北の戊辰戦争の趨勢は決したといってもよく、以後、会津方が攻勢に転じることはありませんでした。

7月初めに頼母は白河口総督を罷免され、若松城に戻りますが、一説に頼母は容保の切腹と家臣一同の殉死を説いたといいます。そうすることで若松城下の戦いを回避しようとしたのでしょう。しかし、敵の理不尽さに激昂する藩士らがこれを受け入れるはずもなく、頼母は登城差し止めとなります。

8月22日、新政府軍は戸ノ口原を破り、若松城下に迫りました。 城も危ういと見た頼母は一族を集め「事ここに至っては一死難に殉ずるのみだが、しかし殿(容保)をはじめ我が藩が尽くしてきた忠誠の心が認められず、賊軍の汚名を負うている間は、暫くの生を忍んでも、その汚名は雪がねばならぬ」と語り、息子・吉十郎を伴って背炙峠の防備に赴きます。一方、頼母と吉十郎を見送った妻・千恵子をはじめ一族の女性21人は翌23日、敵の郭内侵入を目前にしながら、全員が決然と自刃を遂げました。足手まといにならぬよう、また敵に笑われる振舞いをして会津の名を汚さぬように、という壮絶な覚悟を示したのです。

この日、城下に火の手が上がるのを見た頼母は背炙峠から城内に戻り、容保の無事を確認して大いに喜ぶ一方、事態をここまで悪化させたのは、藩主を補佐した者たちの責任であると重臣たちに詰め寄ったため、藩士たちの間には頼母への敵愾心が生まれてしまいます。案じた容保は、越後口から帰国する将たちへの伝言を頼母に任じるかたちで、頼母を城から出しました。頼母も容保の心づかいがわかり、感無量の面持ちで城を去ったといいます。

頼母は越後口から戻る途中の将たちへの伝言役を果たすと、米沢を経て仙台に至り、榎本武揚の幕府艦隊に身を投じて、箱館戦争を戦いました。 五稜郭降伏後は、幽閉を経て、明治3年(1870)に伊豆で塾を開いて里人に学問を教える一方、西郷姓を保科姓に戻しています。

明治12年(1879)、息子の吉十郎が病没。 翌明治13年(1880)、旧主・松平容保が日光東照宮宮司となると、頼母は禰宜となって、容保を支えました。この君臣の間に、どんな思いが去来していたのでしょうか。

その後、頼母は岩代霊山神社の宮司を務め、明治32年(1899)には一切の公職から離れて、若松に戻りました。そしてかつての屋敷から程近い、十軒長屋と称される陋屋に下女と暮らし、明治36年に脳溢血で静かに息を引き取りました。享年73。 辞世の句は 「あいづねの遠近人(おちこちひと)に知らせてよ 保科近悳今日死ぬるなり」

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