「わが兵は限りがあるが、敵には限りがない。いったんは勝ったとしても、最後には必ず敗れるのは誰でもわかることだ。しかし…」(『函館戦記』)
明治2年(1869)5月、新政府軍の箱館総攻撃を迎えても、箱館政権陸軍奉行並の土方歳三は全く動じませんでした。彼はなぜ降伏せず、最後の最後まで戦い続けたのか。その理由は、歳三にとって新選組とは何であったのかを知らなければ、わからないかもしれません。
土方歳三は天保6年(1835)、武州多摩郡石田村の農家の4男に生まれました。商家に奉公に出ますが、商人としては成功せず、家伝の石田散薬を行商しながら、自己流で剣術修行もしていたようです。
17歳の頃、庭に矢竹(篠竹)を植えて「我将来武人となりて名を天下に挙げん」と言ったと伝わりますので、武士への憧れを強く抱いていたのでしょう。
安政6年(1859)、25歳で天然理心流に入門し、やがて4代宗家を継ぐ1歳上の近藤勇と出会います。近藤も農家の出で、武士に憧れを抱いている点では歳三と同じでした。折しも翌年、桜田門外の変が起こり、幕末の動乱が始まります。歳三も近藤も己の剣を世に活かしたいと、大いに意気投合したはずです。
当時、江戸・市ヶ谷にあった天然理心流道場の試衛館には、内弟子の沖田総司をはじめ、食客の山南敬助、永倉新八、藤堂平助、原田左之助、斎藤一ら腕利きたちが集い、歳三も彼らとともに激しい稽古を続けました。これらの面々が新選組の中核となります。
文久3年(1863)春、将軍の上洛警護を目的とした幕府の浪士組に試衛館一門は参加、京都に上りました。紆余曲折を経て、彼らは京都守護職の会津藩お預かりとなり、反幕過激派浪士を取り締まることになります。同年秋、会津藩より「新選組」と命名されました。
新選組局長には近藤、副長は山南と歳三で、ほどなく歳三が単独で務めることになります。歳三も近藤も晴れて憧れていた武士となり、幕府のために剣の腕をふるえるとあって、大いに意気は高かったことでしょう。
新選組の隊旗は「誠」。そこには近藤や歳三の理想が込められています。武士になることを望んでいた二人は、自ら理想とする武士であろうと努めました。すなわち卑怯な振る舞いをせず、節義を重んじる「誠の武士」です。それが新選組の旗の意味でした。歳三は新選組を誠の武士の集団にすることを目指したのです。
更新:11月22日 00:05