元治元年(1864)6月の池田屋事件で新選組はその名を天下に轟かせますが、長州藩などの尊攘派からは仇敵と見なされることになります。
隊士の数が増えて所帯が大きくなり、局長近藤の対外的な地位も上がる一方、裏方で支える副長の歳三は新選組の組織強化に努める必要に迫られます。機動力を高めるための一番から八番組までの小隊制の導入や、士道に背くことを禁じる隊規の運用などは、歳三主導で行なわれていたでしょう。
もちろん厳しい隊規は、歳三や近藤も自分自身にも課していました。歳三は、士道に背けば死をもって償う厳格な規律によって、士道が隊士の行動や考え方のバックボーンとなることを目指していたのかもしれません。
強靭な組織にすべく歳三が知恵を絞った結果、新選組は実際に史上最強の剣客集団となり、反幕勢力と最前線で切り結んで、時代と対峙することになりました。そうした意味で、新選組は歳三にとって、理想を託し、命がけの覚悟で作り上げた「作品」ともいえる存在だったのです。
しかし新選組の奮闘空しく、徳川幕府は倒れ、徳川家は薩摩・長州藩を中心とする新政府軍によって戊辰戦争に引きずり込まれ、賊軍の汚名を着せられます。
歳三ら新選組は鳥羽・伏見で敗れた後に、海路、江戸に戻り、甲陽鎮撫隊を編制して甲府に向かいますが、勝沼で新政府軍と交戦して敗北。下総流山で再起を図る最中に、突然、新政府軍に包囲されました。
切腹の覚悟を固める近藤に、新政府軍本営に出頭し、旗本大久保大和の名で言い逃れをするよう説得したのは歳三でした。「こんなところで新選組局長の近藤を死なせるわけにはいかない。新政府軍に出頭しても、必ず自分が救出する」。そんな思いだったのでしょう。
近藤の出頭中、他の隊士を脱出させた歳三は江戸に入り、勝海舟に近藤救出の協力を要請。打てる手はすべて打った後、後ろ髪を引かれる思いで大鳥圭介軍に加わり、北を目指しました。近藤との再会を信じていたはずです。ところが…。
宇都宮の激戦で負傷した歳三は、移送された会津で近藤の訃報に接します。それは武士としての切腹すら許されず、板橋の刑場、正確には馬捨て場で罪人として斬首されたという報せでした。それを聞いた時の歳三がどんな思いであったかは、想像するに余りあります。
幕府にとって大功ある新選組局長の近藤を武士として認めず、極悪人として処刑した新政府軍は、新選組を全否定したに等しいものでした。新選組には士道も名誉もなく、ただのごろつき集団だったと烙印を捺したのです。歳三が許せるはずがありません。歳三の苛烈極まる徹底抗戦は、この時から始まるのです。
「滅びの美学」などというものとは真逆の、最後の最後まで敵に打ち勝つことを求め続けた新選組副長土方歳三が、抱き続けていた思いを描く「歴史街道」5月号です。ぜひ、ご一読賜りますようよろしくお願い申し上げます(辰)
更新:11月22日 00:05