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萱野権兵衛の切腹~全ての責任を背負った会津藩家老

2017年05月18日 公開
2022年07月05日 更新

5月18日 This Day in History

萱野権兵衛の墓
萱野権兵衛の墓(東京都港区 興禅寺)
 

会津藩家老・萱野権兵衛が切腹

今日は何の日 明治2年5月18日

明治2年5月18日(1869年6月27日)、会津藩家老・萱野権兵衛が切腹しました。戊辰戦争に敗れた会津藩の責任を一身に背負っての自刃でした。

権兵衛は会津藩家老・萱野小太郎長裕の子に生まれました。萱野家は侍大将を務める家柄で、家禄は1500石。権兵衛の生年は不詳ですが、切腹した明治元年(1868)に42歳であったという説を採れば、文政10年(1827)の生まれということになります。名の長修の読み方は、「ながのぶ」とも、「ながはる」ともいわれているようです。幼少の頃から武芸に励み、会津藩に伝わる一刀流溝口派の相伝を受けるまでに至っていました。 また兵学にも通じ、家督を継承する前から藩校・日新館で兵学を講じていたといいます。

文久3年(1863)に家督を継ぐと、藩主・松平容保に仕え、慶応元年(1865)に家老に任ぜられました。この時から萱野家当主の通称である権兵衛を称します。39歳頃のことでした。 会津戦争では日光方面、また越後蒲原の会津領防備などにあたり、いったん帰城。慶応4年(1868)8月21日に新政府軍が藩境を突破すると、城外に打って出て戦います。8月25日には、旧幕府軍の衝鋒隊を率いる古屋作左衛門らとともに高久(現在の会津若松市神指町高久)付近に布陣し、城を囲む敵を突破しようとします。この時、同行を願い出た娘子隊も戦闘に巻き込まれ、中野竹子が討死しました。その後も権兵衛は高久付近に留まり、城内への連絡や補給路確保に尽力します。降伏を唱えて城内の反感を買った西郷頼母に対し、松平容保は権兵衛への連絡役を命じ、頼母はそのまま会津から去りました。

9月22日、会津開城。新政府軍では、戦争の首謀者に責任を取らせようとします。 新政府軍側は「松平容保は門閥の出身であり、新政府への反逆を企てたとは思われない。よって会津藩より首謀者を出頭させるべし」と命じました。要は藩の重役に責任を取らせて決着させようということです。この時、名乗り出たのが権兵衛でした。家老の席次からすれば、田中土佐、神保内蔵助らがいましたが、二人ともすでに自刃しています。 権兵衛は「謹んで裁きを受ける心底である」と申し出ました。会津藩にまつわるすべての責任を一身で引き受け、自分の命と引き換えにしたのです。

権兵衛は謹慎所にあてられた江戸の久留米藩有馬家の藩邸に送られました。翌明治2年(1869)5月18日付けで、権兵衛は切腹を命じられます。有馬家では、丁重な酒肴を用意してくれましたが、権兵衛は辞退し、自ら茶を立てて同室の人々に振る舞い、最後に自らも喫しました。また、一刀流溝口派の奥義が絶えてしまうことを惜しみ、手元にあった竹の火箸を用いて、井深宅右衛門に奥義を伝授したといいます。そして有馬家に厚く礼を述べて、切腹の場に指定された飯野藩保科屋敷に向かいました。保科邸には山川大蔵、梶原平馬が来ており、権兵衛に松平容保と照姫からの2通の親書を渡しています。そこには権兵衛に詫び、また忠義を謝する容保の言葉と、権兵衛を惜しむ照姫の歌が綴られていました。権兵衛は心のこもった書状を頂戴したことを喜び、従容として切腹の座に臨んだといいます。 介錯を務めた保科家の剣客・沢田武司には、忠臣をもてなす道であるとして、藩主から貞宗の名刀を用いるよう渡されており、権兵衛はそのことも感謝しつつ自刃しました。会津の人々の戦いは、開城後の明治の世においても続くことになります。

萱野国老殉節碑
昭和9年(1934)に鶴ケ城内に有志の手で建てられた「萱野国老殉節碑」

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