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「負けじ魂」を貫いた長岡の400年

2018年02月07日 公開
2023年10月04日 更新

江宮隆之(作家)


現在の長岡市の様子(提供:長岡市)
 

予算5年分の借財を抱えて

 

 長岡藩代々の藩主の中では、「中興の名君」といわれる3代・忠辰(ただとき)や、「文化大名」などと称された9代・忠精(ただきよ)などが有名だ。

 代々の藩主には暗君がおらず、すべて名君の誉れ高い人物ばかりとされる。

 幕末に藩主を務めたのが、10代・忠雅(ただまさ)である。

 当時の長岡藩の借財は、嘉永2年(1849)には23万両にも及んでいた。1年間の財源(藩予算)が5万両というから、ほぼ5年分に相当する。このため、忠雅が藩政改革に着手するが成果は上がらなかった。

 ここに登場したのが、河井継之助だ。継之助は17歳で、藩政を担当したいと志を立て、嘉永5年(1852)には江戸に出て、斎藤拙堂や古賀茶渓らから、漢学や洋楽を学んだ。加えて佐久間象山の門も叩いている。

 当時はペリー来航という時期に当たり、藩主・忠雅は、下級武士でも有能な人物を積極的に登用した。その中に、継之助もいた。

「国難に当たって長岡藩の取るべき方策」を問う忠雅に対して、継之助は「富国強兵のための改革を進め外夷に当たる」との意見を提出して、抜擢された。

 対照的なのが、同じく象山のもとで学び、長州の吉田寅次郎(松陰)と並んで「象山門下の二虎」と称された小林虎三郎だ。虎三郎は「横浜開港論」という意見を提出したが、容れられなかった。

 とはいえ継之助も、なかなかその才能を発揮できないまま、悶々とした日々を過ごし、再び江戸に遊学。安政6年(1859)には備中松山の陽明学者・山田方谷を訪ね、藩政改革の基本を学んだ。

 方谷に学び、長岡に戻った継之助は、様々な経験を積みながら、異例の昇進を重ね、ついには執政にまで上り詰める。

 そんな折、情勢は、「尊王攘夷」から「大政奉還」へと移り、慶応4年(1868)に戊辰戦争が起きる。

 継之助は軍事総督として、徳川への恩義を無視できず、あえて「中立」の道を目指した。その結果が「奥羽越列藩同盟」であり、同年の北越戊辰戦争であった。

 長岡藩は、薩長軍(新政府軍)相手に、ガトリング砲などで戦ったが、多勢に無勢は否めなかった。ついに長岡城も市街地も焼け野原になり、継之助も志半ばで命を落とす。

 なお、同じ頃、信州・伊那谷を放浪していた俳人・井上井月(せいげつ)も、長岡藩士とも言われている。

 松尾芭蕉に憧れ、全国を放浪して秀逸な書と俳句を残した異才である。年齢も継之助や虎三郎と近い。故郷への思いは終生、井月の胸にあったという。

 敗戦後の長岡復興にも、多くの長岡人が尽くした。

 明治元年(1868)、新政府によって長岡藩は2万4000石となり、藩主も13代・忠毅(ただかつ)が継いだ。明治2年(1869)、下級武士出身の小林虎三郎や、三島億二郎が登用された。

 文武局総督となった虎三郎の信念は、「藩財政が破綻したとしても、子弟の教育を疎かにせず文武の鍛錬をすべし」というもの。これが後に、長岡藩の分家・三根山藩から贈られた見舞米100俵を食用にせず、金に換えて教育資金にした「米百俵」の故事となる。

 目の前のことよりも、将来を見据えることこそ肝要――。

 この時、同じく見舞米を将来の教育に使うべきと主張したのが、三島億二郎であった。億二郎は藩大参事として倹約を徹底させ、新政府にも救助嘆願を繰り返した。後には虎三郎とともに、国漢学校新設や、長岡会社病院(長岡赤十字病院の前身)、第六十九国立銀行(北越銀行の前身)設立に当たっている。果てには北海道開拓に打ち込むなど、まさしく長岡人らしい「信念」一筋の生き方をした。

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著者紹介

江宮隆之(えみや・たかゆき)

作家

昭和23年(1948)、山梨県生まれ。『経清記』で第13回歴史文学賞、『白磁の人』で第8回中村星湖文学賞を受賞。

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