2018年02月07日 公開
2023年10月04日 更新
他にも、歴史に残る長岡人は数多い。
太平洋戦争の始まる8年前、昭和8年(1933)に特命全権アメリカ大使となった齋藤博は、元長岡藩士の二男である。東京帝大を卒業後、外務省に入り、主に軍縮問題を担当した。
軍縮こそが、日本を守る道。齋藤はそうした信念を持ち、連合艦隊司令長官となる山本五十六と協力して軍縮問題の処理を進めた。
実は、齋藤が願ったのは「三国同盟」ではなく「日米同盟」の締結であったという。
昭和12年(1937)、日本海軍の爆撃機が揚子江にいたアメリカの軍艦を誤爆する事件が起きた。「パネー号事件」である。あわや日米開戦という危機に面して、齋藤大使は日本政府の訓令を待たず、アメリカ人に対してラジオ放送を通じて詫びた。平和主義が、齋藤の根底にあったのだ。しかし、日米関係の良化に繋げることはできず、齋藤はこの2年後、ワシントンで病死する。
山本五十六は、長岡藩家臣の名家・山本帯刀の家系(始祖・成行の兄は武田信玄の軍師・山本勘助とされる)に連なる。山本の有名な言葉「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」は、管理職や教育者にとっての格言でもある。
戊辰戦争に続く長岡2度目の戦災は、太平洋戦争であった。
昭和20年(1945)8月1日、アメリカの爆撃機が長岡を空襲、犠牲者は1486人(本記事が掲載された『歴史街道』2018年2月号の発行日〈1月6日〉現在)、市街地の8割が焼失した。齋藤や山本が苦労して回避しようとした日米戦争が、2人の故郷を再び焼け野原にしたのだ。
それでも、長岡市民は起ち上がり、ここでも「負けじ魂」を発揮する。
復興を諦めることなく、「不死鳥の蘇り」を目指した市民たち。その姿は、一丸となって長岡400年の伝統精神を体現したものではなかったか。そしてその気風は、開府から400年の時を越えて、今なお長岡市民に受け継がれているのである。
《『歴史街道』2018年2月号より》
更新:11月24日 00:05