慶応4年8月16日(1868年10月1日)、河井継之助が没しました。幕末の越後長岡藩の家老として藩政改革を進め、戊辰戦争最大の激戦ともいわれる北越戦争で奮戦したことで知られます。
文政10年(1827)、継之助は長岡藩士・河井代右衛門の長男に生まれました。長岡藩7万4000石は徳川家の譜代大名です。継之助は幼い頃から負けん気が強く、藩校・崇徳館で儒学を学んでから陽明学に傾倒します。雅号は蒼龍窟。継之助は何事も自分の流儀を通すところがあり、嘉永5年(1852)、26歳で江戸遊学に出ると、親類の小林虎三郎(米百俵の逸話で知られます)の通う佐久間象山の砲術塾で学ぶ一方、儒者・古賀謹一郎の久敬舎に寄宿、肝心の講義にはろくに顔を出さず、蔵書の写本に精を出したといわれます。その後、ペリー来航時に藩主・牧野忠雅に提出した藩政改革案が認められ、長岡に戻って藩政刷新に尽力することを期待されますが、守旧派の家老に遮られ何もできずに終わり、不遇をかこちました。
安政6年(1859)、33歳で再び江戸に出た継之助は、陽明学者として高名な備中松山藩の山田方谷に直接教えを乞うべく、備中に出向き、言行一致の山田の姿に深い感銘を受けました。山田から経世済民の姿勢と藩政改革のあり方を学んだことは、その後の継之助の行動に大きく影響します。山田は別れるにあたり、継之助へ『王陽明全集』を贈るとともに、「この書々を読み、利を求めて、反って害を招かんことをおそれる」と伝えたのは、何事かを予感したのかもしれません。
文久2年(1862)に藩主・牧野忠恭(忠雅の養子)が京都所司代に任ぜられたことで、翌年の初めより継之助も動乱の京に出向きますが、尊攘派浪士らの狼藉に接し、藩主に早々に辞任することを勧め、忠恭は半年で辞任。当時の京の有様を継之助は嘆き、「浪人どもが口先で攘夷と騒ぐが、我が国が綱紀を立て、富国強兵を実現すれば外国は恐れるに足らず。むしろ我々は通商の道を開き、外国を利用して富国を実現すべきである。まず上下一致して綱紀をひきしめ、財を充実させ、兵力を強化して、御家名を汚さぬことが肝要」と書状で語っており、極めて客観的・合理的に時代の本質を鋭くとらえていたことが窺えます。
慶応元年(1865)、郡奉行に任じられると、継之助はいよいよ藩政改革に乗り出します。その根本は「民は国の本、吏は民の雇」というものでした。継之助は治水に力を入れるとともに、賄賂を禁じ、驕奢を抑え、遊里や賭博を廃し、節約を重んじ、産業を奨励し、その手本は「民が富まなければ、藩も富裕にならない」という、師・山田方谷の備中松山藩の改革であったといいます。さらに継之助独自の改革として兵制改革を断行、禄高も改正して、フランス式の銃隊中心の編成に改めました。
慶応3年(1867)、大政奉還、さらに王政復古が発令されると、継之助は上洛し、藩主の名代として新政府の評議所に徳川氏を擁護する建言書を提出しますが、黙殺されます。そして鳥羽・伏見の戦いで旧幕府方が敗れると、継之助は急ぎ江戸藩邸に戻って家財を売り払い、その金を元手にさらに軍資金を増やした上で、ガットリング砲をはじめ、エンフィールド銃、スナイドル銃などの最新兵器を購入して、長岡に戻りました。おそらく薩長を中心とする新政府軍のやり方に危うさを覚え、こちらが強力な武力を背景にしなければ、何も聞く耳を持つまいと判断したのでしょう。ちなみにガットリング砲は毎分200発連射可能の機関砲で、当時日本に3門あるうちの2門を継之助が購入したともいわれます。
慶応4年4月、継之助は長岡藩の軍事総督に就任。長岡藩軍の総帥となりました。そして5月2日、運命の小千谷会談を迎えます。北越路を進軍してきた新政府軍の小千谷陣営に出向いた継之助は、長岡藩領への侵攻停止を訴えます。新政府軍軍監・岩村精一郎は継之助が何者かを知らず、田舎家老の嘆願と受け止め、新政府軍に味方するのか否かと居丈高に問いました。継之助は全く屈せず、討幕の理由の説明を求めます。「貴公らは会津藩や旧幕府軍を討つといいながら、その実は私的制裁と権力奪取が目的ではないのか」と突きつけたのです。返事に窮した岩村は激昂し、兵馬で雌雄を決すべしと言い捨てて決裂。この時、継之助にとって不運だったのは、岩村が腹を割って話せる相手ではなく、また新政府軍が長岡藩の最新軍備についての情報をつかんでいなかったことでしょう。継之助の近代軍備を背景に、長岡藩を局外中立として、新政府軍のこれ以上の侵攻を食い止める目論見は潰えました。
「ついにやむを得ざる。我が藩領を侵し、我が民を駆り、我が農事を妨げし者は奸賊なり」
長岡藩は奥羽越列藩同盟に加盟し、北越戦争へと突き進みます。新政府軍はそこで、とんでもない男を相手にしていることにようやく気づくのです。近代軍備となっていた長岡軍は当初、新政府軍を圧倒しました。しかし数の差はいかんともしがたく、5月19日に長岡城を落とされます。ところが信じがたいことに継之助らは逆襲に転じ、敵の意表をつく八丁沖渡沼作戦で、長岡城を奪還するのです。しかしこの時、継之助は流れ弾を左膝に受ける重傷を負ってしまいます。
傷が化膿して歩くことも出来ず、「八十里 腰抜け武士の 越す峠」という自嘲的な句を詠んだ継之助は、会津の塩沢村に至ったところで死期を悟り、従者に火葬の支度を命じて、破傷風のため息を引き取りました。享年42。「天下になくてはならぬ人となるか、あってはならぬ人となれ。沈香も焚け、屁もこけ」とは、継之助がよく人に語った言葉です。
更新:11月22日 00:05