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小林虎三郎と米百俵~富強の本ただ人民の知識を開く外なし

2017年08月18日 公開
2023年04月17日 更新

8月18日 This Day in History

米百俵の群像
 

今日は何の日 文政11年8月18日

小林虎三郎が生まれる

文政11年8月18日(1828年9月26日)、小林虎三郎が生まれました。維新後、長岡藩大参事を務め、「米百俵」の逸話でも知られます。今回は虎三郎の言葉などを紹介してみます。

文政11年、虎三郎は越後長岡藩士・小林又兵衛の3男に生まれました。同藩の河井継之助よりも1歳年下です。幼少の頃、疱瘡を患って左目を失明しますが、藩校・崇徳館に学び、18歳で藩校の助教を務めるほど学問に秀でていました。 嘉永3年(1850)、23歳の時に藩命で江戸に遊学し、洋学や砲術で高名な佐久間象山の塾に入門。象山は虎三郎の父・又兵衛と親交がありました。また長州の吉田寅次郎こと松陰を象山に紹介したのは、虎三郎であったといわれます。 象山は「義卿(ぎきょう、松陰)の胆略、炳文(へいぶん、虎三郎)の学識、稀世の才なり。ただし事を天下に成す者は吉田子なるべく、我が子を依託して教育せしむべき者は、独り小林子なるのみ」と称賛し、二人は「象山門下の二虎」と呼ばれました。

嘉永6年(1853)、虎三郎は象山の説を用いて、当時幕府老中を務めていた主君・牧野忠雅に神奈川開港を進言したために、帰国謹慎の処分を受けます。虎三郎は謹慎中、「講学私議」を著しました。 元治元年(1864)、象山は京都で暗殺されます。生前、象山は息子・恪二郎の教育を虎三郎に託していましたが、恪二郎は父の仇討ちをすると息巻いて新選組に入り、その後脱走、行方知れずとなりました。

慶応2年(1866)、虎三郎は「藩兵制意見書」を提出し、採用されます。大政奉還で幕府が倒れた翌年の慶応4年(1868)5月、河井継之助らの主導で長岡藩が開戦に踏み切ると、虎三郎は主戦派にも恭順派にも与せず、独自の非戦論をもって戦争に反対しました。 その後、虎三郎は城を失った藩主・牧野忠訓に従って長岡から会津へ、さらに仙台へと逃れます。同年末、長岡藩は新政府より許され、牧野忠毅に2万4000石が朝廷より与えられました。翌年、虎三郎も長岡に帰り、文武総督となって「藩治職制」の立案にあたります。また大参事に任ぜられ、四郎丸村にある昌福寺の本堂を借りて仮校舎とし、国漢学校を開校させました。

明治2年(1869)、長岡藩は版籍を奉還。当時、北越戦争の舞台となった長岡は壊滅的打撃を受けており、人々は困窮していました。 翌明治3年、長岡藩の窮状を察した支藩の三根山藩より、米百俵が贈られます。藩士たちは米の分配を望みましたが、虎三郎はそれを許しません。
「この米を一日や二日で食いつぶして、何が残る。国が興るのも町が栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ」
虎三郎の気迫の前に、藩士たちは言葉に従いました。

虎三郎は米の売却益を元手として、学校に必要な書籍や器具の購入に充て、国漢学校の本校舎を坂之上町に開くのです。 国漢学校は虎三郎の「富強の本ただ人民の知識を開く外なし」という方針のもと、農民や町人の子弟の入学も認められました。この国漢学校は後に新政府の学制に組み込まれ、いくつもの学校が派生していきます。虎三郎の言葉を少し紹介してみましょう。

「みなが一体となって苦しみに打ち勝ってこそ、はじめて国も興り、町も立ち直るのだ」
「百俵の米も食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば、明日の一万、百万俵となる」

おそらく虎三郎は、当時の日本にとって最も必要なのは旧幕府と新政府の内戦ではなく、諸外国に対峙しうる近代国家建設であり、そのためには人材の育成こそが何よりも重要であると見抜いていたのでしょう。 仮に吉田松陰の育てた人材が時代を動かしたというのならば、虎三郎が育てようとしたのは時代を創る人材だったのかもしれません。

明治4年(1871)、病を得た虎三郎は公職を辞し、明治10年に病没しました。享年50。「国が興るのも町が栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ」という言葉は、今の日本においてもいささかも色あせていないと感じます。

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