2017年07月11日 公開
2019年07月02日 更新
元治元年7月11日(1864年8月12日)、佐久間象山が京都で暗殺されました。幕末を代表する兵学者、洋学者であり、多くの人物に影響を与えたことで知られます。
文化8年(1811)、象山は松代藩士・佐久間一学の長男に生まれました。幼名は啓之助。佐久間家は微禄でしたが、一学が卜伝流剣術の達人であるとともに、藩主・真田幸貫の側右筆に任じられたことで、藩内で重んじられています。象山は幼少から儒学、詩文、経書、和算など多岐にわたって学んでいました。文政11年(1828)、象山は18歳で家督を継ぎ、天保2年(1831)の21歳の時に、藩主・幸貫の世子・幸良の教育掛に任じられました。
翌年、年長者に対して不遜であるという理由で、4カ月の閉門を命じられます。当時の象山は、若き英才として藩内の誰もが認める一方、「偏狭にして度量がない」と、性格に難があるとして必ずしも評判はよくありません。しかし藩主・幸貫は、「あやつは必ず国の役に立つ」と重用します。この幸貫の理解がなければ、その後の象山はなかったことでしょう。
天保4年(1833)、藩から江戸遊学を許された象山は、儒学の大家・佐藤一斎に入門し、山田方谷とともに、「二傑」と称されるに至ります。6年後には江戸に私塾「象山書院」を開きますが、教えるのは儒学であり、まだ海防や洋学への意識はありませんでした。
それが急転するのは天保12年(1841)、主君の幸貫が外様大名ながら幕府老中に任ぜられ、さらに「海防掛」の特命を受けたことによります。幸貫は寛政の改革で知られる松平定信の実子であり、日本の近海に出没するようになっていた外国船や、アヘン戦争の情報から、海防に高い意識を持っていました。そして幸貫は、31歳の象山を自分の顧問(ブレーン)とし、西洋の実情を調査させたのです。藩命により象山は西洋砲術の大家・江川太郎左衛門に入門、同じく砲術家の下曽根信之にも学びます。また箕作元甫、鈴木春山といった洋学者とも交わって見聞を広げ、天保13年(1842)、藩主・幸貫に「海防八策」と呼ばれる海防意見書を提出しました。そこには人材の抜擢、海軍の準備などが説かれており、象山の見識の高さを窺わせ、幸貫は老中の水野忠邦らに意見書を提示しています。
翌年、藩主・幸貫は海防掛の任を解かれ、天保15年(1844)には老中からも退きましたが、西洋科学に着目した象山は独自の道を歩みました。嘉永2年(1849)、39歳で松代にて日本初の電信実験を成功させ、ガラスの製造や牛痘の導入にも取り組みます。また江戸で砲術の塾を開き、勝海舟、吉田松陰、小林虎三郎らが学んだことは有名です。
象山が重んじたのは「和魂洋才」でした。西洋の科学技術は学ぶにしても、根本となる精神は儒教をはじめとする日本人が磨き上げてきた道徳であることを忘れてはならない、というものです。嘉永6年(1853)にペリーが来航すると、老中首座の阿部正弘に「急務十条」を提出、海軍の創設、人材登用、武士の意識改革の必要性などを説きました。翌年、再来航したペリー艦隊に弟子の吉田松陰が密航しようとして失敗、その企てを支援したとして象山は伝馬町に入牢、その後も文久2年(1862)まで松代に蟄居させられました。
元治元年、象山は禁裏守衛総督を務める一橋慶喜に招かれて上洛、象山が持説としていた公武合体と開国論を述べました。もちろん象山の言う開国とは西洋に迎合するものではなく、公武合体で日本が一丸となり、開国して、西洋に抗しうる最新の軍備を整えて列強の侵略を防ぐという、当時としては最も現実味のある策です。しかし開国を説くことで、「西洋かぶれ」と誤解された象山は、帰宅途中、三条木屋町付近の路上で、肥後の河上彦斎らに斬殺されました。享年54。
その後、河上は象山の真意を知り、暗殺を悔いて、その後は二度と人を斬らなかったといわれます。象山の言葉に「二十歳にして一国(藩)に属するを知り、三十歳にして天下(日本)に属するを知った。四十歳にして五世界(国際社会)に属するを知った」というものがあります。象山のスケールを感じさせます。
更新:11月22日 00:05