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島村速雄~日本海海戦を勝利に導いた陰の立役者

2018年01月08日 公開
2022年06月28日 更新

1月8日 This Day in History

島村速雄
 

島村速雄が没

今日は何の日 大正12年(1923)1月8日

大正12年(1923)1月8日、島村速雄が没しました。海軍軍人で日露戦争開戦時の連合艦隊参謀長。その智謀は底知れず、また功績はすべて他者に譲ることを生涯貫いた人物として知られます。

島村速雄は安政5年(1858)、土佐藩の郷士・島村左五平の次男に生まれました。幼名午吉。幼い頃に父親を亡くし、家計が苦しいため、学費のかからない海軍兵学寮(後の海軍兵学校)を目指します。学業優秀のため16歳の時に司法省の役人から養子縁組の話が来ますが、「男子たる者、他人の力で出世するなど意気地のないことだ」と言って断りました。17歳で上京し、海軍兵学寮に入学。以後、明治13年(1880)に卒業するまで、常に首席(クラスヘッド)を続け、「兵学校7期に島村あり」とその名を知られます(速雄の在学中に兵学寮は兵学校に改まりました)。

明治20年(1887)の中尉時代には、アメリカ海軍ベインブリッジ・ホフ少佐の『現代海軍戦術の実例、結果、原理』を『海軍戦術一班』として翻訳し、その分野の第一人者となります。 同明治20年にイギリス海軍ジョン・イングルス大佐が来日し、海軍大学で海軍戦術を講義した折、「単縦陣戦法」(艦隊が先頭から最後尾まで縦一列に並ぶ陣形。艦隊運動が容易であり、敵に一斉砲撃が可能になる)を強調しました。速雄も実際に艦隊演習でその優位性を認め、日本海軍ではやがて単縦陣戦法を「お家芸」と呼ばれるまでに磨き上げていきます。

明治27年(1894)9月16日、日清戦争における最大の海戦・黄海海戦において、単横陣(艦隊の全艦が横一線に並んだ陣形)を敷く清国の北洋艦隊に対し、日本海軍の連合艦隊は単縦陣でこれに挑みました。この時、第一遊撃隊司令官の坪井航三が主張する単縦陣戦法を、強く支持したのが連合艦隊参謀の速雄です。黄海海戦勝利は連合艦隊司令長官の伊東祐亨や坪井の功績とされますが、速雄も陰ながら勝利に貢献していました。

それから10年後の明治37年(1904)、日露戦争が勃発すると、作戦家として知られていた速雄は東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊の参謀長に任じられます。しかし作戦立案は秋山真之連合艦隊参謀に委ね、速雄は裏方にまわりました。当初、連合艦隊が苦しんだのが、旅順港から出てこないロシア艦隊(旅順艦隊)に対する閉塞作戦です。強力な旅順要塞からの攻撃を覚悟しなければならない閉塞作戦は大きな危険を伴いますが、だからこそ速雄は、閉塞船を掩護するに足る駆逐艦と、閉塞要員を収容できる水雷艇がきちんと準備できない限り、決して出動を認めませんでした。

数度に及ぶ閉塞作戦は結局失敗に終わり、旅順艦隊は乃木希典率いる陸軍の第三軍が二〇三高地を落とすことで、壊滅を確認。すると速雄は参謀長の職を同期の加藤友三郎に譲り、第二艦隊第二戦隊の司令官に転出します。閉塞作戦失敗の責任をとるかたちでしたが、「作戦については秋山に任せておけば心配ない」と後輩に太鼓判を押しました。失敗はすべて自分が責任を取り、功績は他に譲ったのです。

その後、日本海海戦を前にして、連合艦隊にはもう一つ大きな試練が訪れました。迫り来るバルチック艦隊が、フランス領安南のヴァン・フォン湾を出港後、行方がつかめなくなったのです。ウラジオストックに向かう航路としては対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡の3つが考えられました。朝鮮半島南東部の鎮海湾で待機する連合艦隊は、焦燥します。津軽か宗谷が選ばれれば、バルチック艦隊を取り逃がす可能性が大でした。さしもの秋山真之も頭を抱え、5月24日の夕刻に旗艦三笠で行なわれた最終会議では、秋山をはじめ、幕僚は艦隊を北方に移動させる案に傾きます。移動反対を唱えるのは、第二艦隊参謀長の藤井較一のみでした。

そこへ汽艇の故障で会議に遅刻した速雄が現われます。話を聞いた速雄は「北方移動は尚早である。別に情報がない限りは、しばらくここに留まるのがよいだろう」と進言。さらにこうも付け加えたともいいます。「敵に海戦というものを知る提督が一人でもいるならば、敵は必ず対馬水道に来る」。欧州からの長い航海を続け、乗組員たちも疲労し、艦も傷んでいるはずの敵は、必ず最短コースを選ぶ、という読みでした。結果、速雄の読み通り、3日後にバルチック艦隊は対馬海峡に現われ、連合艦隊は歴史的な勝利を収めるのです。

しかし戦後、新聞や雑誌に速雄が日本海海戦の勝利を導いたかのような記事が載ると、速雄は本気で抗議しました。あの海戦の功績は東郷司令長官であり、作戦面では秋山参謀であると。自分の功績を誇ることを、絶対にしなかったのです。

速雄はその後、兵学校校長、軍令部長などを歴任、加藤友三郎とは生涯通じて親しく、加藤が首相に就任する際には、健康状態を慮って辞退を勧めました。また速雄は来客を必要以上に歓待するため、家庭は円満であるものの、生涯清貧であったといわれます。

明治の末に雑誌「太陽」が企画した「次代の適任者は誰か」という企画で、次代の連合艦隊司令長官として速雄が一番となりますが、「自分はその栄に値しません。将来、本当に司令長官となって、それに相応しい業績を上げたならば、その時にお受けしましょう」と言って表彰も記念品も固辞しました。

大正12年没、享年65。

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