2018年01月03日 公開
2022年07月14日 更新
「鎌倉の切り通しを歩く山本博文先生」
――大学院に進まれた後、東大史料編纂所に就職されるのですが、そもそも東大史料編纂所とは、どんな仕事をしているところなのでしょう。
山本 研究と史料の編纂がおもな仕事です。調査範囲は全国に及び、そこで見つけた史料の目録をつくったり、写真を撮影して、帰って分析したりします。おかげで若いうちに、いろいろな史料を読む機会を得ることができました。
――史料はどんなところに残っているのですか?
山本 熊本大学の付属図書館には細川家の史料が残っていますし、山口県文書館には、毛利家の史料が揃っているといったように、各県の図書館や文書館で保管しているケースが多く、そういうところへ出かけて行くわけです。
個人のお宅で貴重な史料を保存している場合もあります。下関から萩のあたりで、文書を持っていそうなお宅を片っ端から訪ねて写真を撮ることなどもしていました。
――これまで見つけた史料のなかで、一番驚かれたものは何でしょう。
山本 単独の史料が歴史学を変えるというような発見の機会はなかなかないのですが、大きな史料群の中に、こんなものがあったのかといった経験はあります。山口県文書館にあった史料群のなかに、江戸時代の長州藩お留守居役・福間彦右衛門の日記を見つけたときは驚きました。
膨大な史料の場合、読み解く人がいなくて、置きざりにされているケースも多々あります。文書館の仕事は、その地域の文書を集めたり、寄託された文書の管理をすることがメインですので、史料を読み解くところまで手が回らないことも多いようです。
山口県の場合、学芸員の仕事は幕末維新の研究がメインでしたので、江戸時代初期の史料は手つかずのままでした。
――先生は30歳の時に、福間彦右衛門の日記にめぐりあい、それを元に『江戸お留守居役の日記』(読売新聞社、のち講談社学芸文庫)を書かれました。
山本 それまで、専門書は2冊書いていたのですが、一般向けの本は初めてで、担当編集者に何回も書き直しをさせられました。研究者が普通に使っている歴史用語が一般の人にはわからないことを知り、勉強になりましたね。このときの経験が、後々、一般の人に向けた本を書くときに役立っています。
苦労した甲斐あって、『江戸お留守居役の日記』でエッセイストクラブ賞をいただくことができました。
――それ以降、現在に至るまでに70冊もの本を書かれているのですが、転機になったご本というのは、ありますか?
山本 『殉死の構造』(弘文堂、のち講談社学術文庫)でしょうか。史料を読み解いていくうちに、武士を貫いている精神のようなものに興味をひかれていきました。封建時代の悲劇のように言われ、いやいや殉死するように思われていたのですが、実は殉死する人々は喜んで死んでいるのです。
新渡戸稲造が『武士道』で描いている武士の姿とはずいぶん違います。そのため、現実の江戸時代の武士の考え方や行動を、突き詰めてみたくなりました。それが、武士の鑑ともてはやされた赤穂浪士や忠臣蔵を考え直すきっかけにもなりました。
――最近では、「まんが日本の歴史」シリーズの監修などのお仕事もされていますが、扱う時代が旧石器時代から現代までですので、大変だったのでは。
山本 専門以外のところも多いのですが、学生時代から中世史、近代史にも興味があったので、違和感はありませんでした。とはいえ、考古学や古代史については、その分野の第一人者や最新の説、特異な説を出している人の本などを読んで勉強しました。最近は新書でいいものが出ていて、最新の説をチェックするのに役立てています。
――ご専門の近世以外の時代を勉強したことで、見えてきたことはありますか?
山本 埼玉県行田市の稲荷山古墳で発掘された鉄剣によって、ヤマト朝廷の大王が関東や九州にまで支配力を持っていたことがわかりました。この長いヤマト朝廷の歴史そのものが、日本という国家の特質を生んでいることを実感しました。
この長い歴史は、江戸時代の思想界に大きな影響を与え、「国体論」が成立します。そしてこの国体論は、あれだけ負けていてもなお降伏しようとしない軍人を生み出したりするわけです。こうしたマクロ的な視点で歴史を眺めることの大切さを痛感しています。
――最後に、これからどんなことを書いていきたいか、聞かせてください。
山本 武士道について書いた本で試みたように、日本人の発想法を歴史的に明らかにしていきたいと思っています。日本独特の思想や考え方について秩序立てて考えていくことにより、日本人とは何かが見えてくるのではないかと思うからです。
更新:11月23日 00:05