2017年10月04日 公開
2023年03月09日 更新
石落とし
水の張られた堀のことで、濠とも書きます。近世において水堀は、鉄砲の射程を勘案して、従来の弓矢の射程(約27m)よりも広くなりました。江戸城で最も広い堀の幅は50間(約90m)といわれますので、容易に越えられる幅ではなく、鉄砲の撃ち合い以外は戦いの舞台にはなりにくいものでした。
石垣の普及は、築城技術の大変革といわれます。急斜面の塁壁を築くことが可能となり、限られたスペースでも曲輪どりを大きくすることが可能となりました。また石垣最上部の端いっぱい、もしくは石垣から突出した建物を築くことができるようになりました。石の積み方には、自然石を割って積み上げた野面〈のづら〉積み、槌で石材を積みやすく加工した打込〈うちこみ〉ハギ、隙間がなく目地が整然とした切込〈きりこみ〉ハギなどがあります。
横矢掛かりともいいます。石垣や土塁などの塁壁に凹凸を与え、攻め寄せた敵を側面から弓矢で射たり、鉄砲で撃つことのできるようにした工夫です。
虎口の前面に方形の空間を設け、そこに門を二重に構えたもの。攻め寄せた敵が最初の門をくぐると、L字に屈曲した先に第二の門があり、そこで足止めされる間に三方向から矢弾を浴びることになります。多くの場合、最初の門(二の門)は高麗〈こうらい〉門、第二の門(一の門)は防御力の高い櫓門になっていることが基本でした。寄せ手に大きな犠牲を払わせる施設です。
櫓門
門の上に櫓が設けられたもので、石垣に挟まれた城門の場合、両側の石垣上に多聞櫓を渡すタイプのものと、楼門のように独立してつくられた二階門のタイプがあります。有事の際は櫓内に将兵が詰め、攻め寄せる敵を攻撃します。
櫓は古くは矢倉、矢蔵と記され、弓矢を常備する蔵の意味でした。敵の来襲に対応すべく、塁上や虎口(出入り口)の門上につくられるようになります。多聞櫓は塁上に塀の代わりに長屋状建物を構えたもので、虎口門上に置いた多聞櫓は渡り櫓とも呼びます。
天守や櫓の壁面、塀などに開けてある穴や窓のことで、外側から迫る敵に弓矢を射かけ、鉄砲、大砲などを撃つためのものです。円形、三角形、正方形、長方形などの形状があり、弓矢向け、鉄砲向けと武器によって使い分けていたともいわれます。なお塀の土台の石に穴を開けて、鉄炮を撃てるようにした石狭間もあります。
天守や櫓、櫓門の壁面などに設けられた下方に向けた開口部で、そこから真下にいる敵に向けて、石や煮え湯を落としたり、弓矢、鉄砲、槍で攻撃したといわれます。
狭間
天守は天主、殿守、殿主などとも書かれ、城の象徴的存在です。織田信長の安土城などでは居住空間として用いられましたが、江戸時代以降は城主がそこで暮らすことはなく、城内を見渡し、城外を見晴らす他はもっぱら物置として使われました。むしろ天守の意味は、城主の権威を城下の人々に示すことにあったといえます。なお天守閣という呼び方は明治時代以降の俗称です。
いかがでしょうか。言葉だけでなく、写真や絵を見ないとわかりにくいものもあるかと思います。香川元太郎著『47都道府県別 よみがえる日本の城』では、これらをイラストで解説していますので、ぜひご覧になってみてください。これらを知った上でお城を訪ねると、いろいろな発見があり、これまでの何倍も楽しめることうけあいです。
更新:11月22日 00:05