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上田城、田辺城、小松城、大津城……関ケ原の行方を決した「籠城戦」

2012年02月06日 公開
2022年10月06日 更新

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

『歴史街道』2012年3月号 特集「関ケ原籠城列伝」より 

関ケ原

あの大軍が関ケ原に現れれば…

関ケ原本戦に影響を与えたという点では、何といっても、敵大軍の本戦参加を阻止した籠城戦に注目すべきだろう。まず、丹後田辺城籠城戦である。守将は東軍の細川幽斎で、城兵は僅か5百。対する西軍は1万5千だったが、何と城方は7月20日から9月13日まで持ちこたえた。これにより、西軍の田辺城攻撃隊は本戦参加を阻まれる。田辺城が早期に陥落していれば、田辺城攻撃隊は本戦に参加するか、もしくは後に紹介する大津城攻めに加わったかもしれず、関ケ原の様相は一変していただろう。

ところで今日の感覚では、小城が相手ならば抑えだけを置き、主力は本戦に向かうのが合理的と考える。しかし当時の武将にとって、目的を果たさずに戦場を離れるのは恥辱であった。関ケ原では似た局面が多々あるが、その心理は押さえておいていただきたい。

あまり知られていないが、北陸の小松城周辺でも戦局を左右する戦いが起きている。北陸では金沢城主・前田利長が東軍に、小松城主・丹羽長重が西軍に与していた。7月26日、前田利長は2万5千の大軍を率いて小松城攻めに向かう。対する丹羽長重は、兵3千で籠城した。だが攻略は難しいとみた前田利長は、小松城を横目に西進する。

その最中、西軍の北陸方面の指揮官である大谷吉継が「大谷軍が、海路から金沢城を奇襲する」という虚報を流した。前田利長はこれを真に受けて金沢城に帰還しようとする。これを知った丹羽は、小松城近くで待ち伏せし、8月9日、前田軍を痛撃した。以後、利長は積極的に動かず、再び出陣したのは9月12日のことで、本戦には間に合わなかった。

前田利長が動かなかった真意はともかく、丹羽長重と大谷吉継の働きは前田の大軍の本戦参加を阻止したことになり、西軍にとって大きな戦果だった。もし前田軍が南下していれば大谷は北陸戦線に忙殺され、本戦に参加できなかったろう。また、前田軍が美濃まで進出していれば、決戦の様相も全く変わってしまったはずである。

北陸戦線が西軍にとって会心の展開であった一方で、一大痛恨事となったのが大津城の戦いであった。西軍は、東軍に寝返った大津城主・京極高次を討つため、9月上旬に立花宗茂ら1万5千の大軍を派遣する。しかし、城を開城させたのは、まさに両軍が関ケ原で決戦を始める9月15日の朝のことで、西軍の大津城攻撃隊は本戦には間に合わなかった。

立花宗茂は西軍最強と目され、「彼が関ケ原にいれば」とよく語られる。全くその通りだが、彼が本戦に参加していれば、もう1つの劇的な効果を期待できた。それは、小早川秀秋の寝返り阻止である。立花宗茂ら大津城攻撃隊には小早川家と同じ九州の大名が多く、地縁関係が深い。しかもどの部隊も精強だ。となれば、彼らが関ケ原にあれば小早川は東軍に寝返らなかった可能性が高く、そうなれば、西軍が勝利を収めていたであろう。

敵大軍の本戦参加を阻止した籠城戦といえば、第二次上田合戦もよく知られている。真田昌幸が、徳川秀忠軍3万8千を翻弄した戦いだ。しかもこの一戦は関ケ原のみならず、実はその後の歴史をも変えてしまった。

秀忠軍は榊原康政らを擁し、徳川家の実質的主力であった。それを欠いた家康は、豊臣系大名を主力として本戦を戦わなければならなかった。当然、戦後の論功行賞では彼らを優遇せねばならず、徳川家の加増は抑えざるを得ない。それが結果として、幕藩体制と呼ばれる地方分権的な支配体制をもたらしたのである。もし秀忠軍が本戦で活躍していれば徳川家の勢威を誰もが認め、中央集権的な幕府になっていた可能性もある。上田合戦は、徳川幕府のあり方すら変えてしまったのだ。

余談だが、秀忠軍の遅参は家康にも責任があると思う。家康は秀忠軍の軍監に本多正信をつけたが、彼は戦功に乏しい。榊原康政ら武功派は、彼の監視下に置かれるのが不満だったはずだ。そんな内部の軋轢も、真田軍に翻弄される要因となったのではないか。家康といえどもこれほどの大乱となれば、全くの手抜かりなしにはいかなかったのである。

 

石田三成と徳川家康、それぞれの決断

では三成と家康は、なぜ立花宗茂や徳川秀忠らを待たずに決戦に至ったのか、不思議に思われる方もあるだろう。私は、家康が先に仕掛けたと考えている。清洲城を進発した東軍諸将は常々、家康の参陣を要請しており、家康が美濃赤坂に到着した時には、決戦を求めてやまなかったはずだ。歴戦の家康は、「今を逃せば、士気が落ちる」と見極め、秀忠軍抜きの決戦に踏み切ったのだろう。そこで城攻めを避けるべく、「東軍が佐和山へ向かう」という虚報を流し、大垣城から三成を引きずり出そうとしたに違いない。

対する三成はその虚報を信じ、関ケ原で東軍を食い止めるべく大垣城から出た。ただし、三成に勝算がなかったわけではない。すでに関ケ原には大谷吉継らを布陣させ、有利な陣形をとっていたからだ。布陣だけならば「西軍の勝ち」といわれるが、それだけの勝算はあったはずである。

周知のように、関ケ原本戦は東軍の勝利に終わった。しかしその結果が、いかに籠城戦に左右されていたものであったか、お分かりいただけたことと思う。実はここで紹介した籠城戦のうち、討死(うちじに)した城主は鳥居元忠のみで、他はいずれも一命を取りとめている。しかし、彼らが全滅を覚悟して籠城戦に臨んでいたことは疑いない。どの城主も、敵の10分の1程度の手勢しか持っていなかった。勝てると思っている人物がいたとすれば、真田昌幸くらいであろう。

しかもそれらは、通常の籠城戦とは性質が全く異なる。通常、籠城戦は援軍があるのを前提で行なうものだ。しかし、各城は援軍を期待できないばかりか、情報をほとんど遮断されていた。そんな最悪の状況下で、彼らはそれぞれの信じるもののために、城を守ろうとしたのである。確かに、一つひとつの戦いは、小さく見えるかもしれない。しかし、籠城戦の一つひとつが歴史の歯車の回転を変え、天下の行方を決したのもまた事実である。

翻って現代を顧みると、世界情勢は混迷を極め、日本の取るべき道も見えてこない。我々の置かれた状況は、関ケ原の武将たちと似ているかもしれない。とすれば、彼らの生き方は、我々に多くの示唆を与えてくれるのではないか。先が見えずとも、信じるところに拠って死力を尽くせば、道は開ける…。たとえ、それが時代のうねりの中では小さなものであったとしても、一人ひとりの行動は、歴史の中で何がしかの意味を持っているのである。

著者紹介

小和田哲男(おわだ・てつお)

静岡大学名誉教授

昭和19年(1944)、静岡市生まれ。昭和47年(1972)、 早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史、特に戦国時代史。著書に、『戦国武将の叡智─ 人事・教養・リーダーシップ』『徳川家康 知られざる実像』『教養としての「戦国時代」』などがある。

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