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伊勢安濃津城の戦い~関ケ原前夜、西軍の戦略を打ち砕いた「籠城戦」

2012年02月06日 公開
2022年10月06日 更新

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

『歴史街道』2012年3月号 特集「関ケ原籠城列伝」より

小和田哲男

籠城戦を見ずして、関ケ原は語れず

天下分け目の戦い。この言葉からは、ほとんどの人が慶長5年(1600)9月15日の関ケ原合戦を思い浮かべるだろう。東軍率いる徳川家康が石田三成指揮する西軍を破り、事実上の天下人となった戦いだ。

しかし、このたった1日の戦いのみで家康が勝者になったと捉えると、関ケ原合戦の本質は全く見えてこない。というのも、9月15日の決戦に至るまでの約2カ月間、全国各地で様々な戦いが起こり、その一つひとつが、決戦に少なからぬ影響を与えていたからである。その意味では、西軍挙兵以降の全ての戦いを包括して「関ケ原合戦」と称すべきだろう。

そして、それらの戦いの中でもとりわけ注目したいのが、畿内・北陸・中部で展開された“籠城戦”である。主なものに、伏見城(山城)、田辺城(丹後)、小松城(加賀)、安濃津城(伊勢)、上田城(信濃)、大津城(近江)の戦いがある。これらは両軍の戦略に直接影響を与えて戦局を変え、多くは敵を釘付けにすることで決戦参加を阻止した。足止めされた軍勢は、少なくとも東軍6万3千、西軍3万にものぼる。それらの戦いの1つでも結果が異なっていたら、関ケ原の行方は全く変わっていた可能性があるのだ。

たった1つの出来事が、歴史を劇的に変えてしまうことがある。関ケ原決戦までの2カ月間は、そうしたターニングポイントともいうべき出来事がいくつも重なりあっており、東西両軍の首脳にとっては息づまる日々であったろう。また後世の私たちから見れば、ダイナミックな歴史の動きが凝縮された戦いともいえる。今回は、主な籠城戦の関ケ原合戦における意味を明らかにしつつ、天下分け目の戦いの真の姿を炙り出して行きたい。なお便宜上、9月15日の決戦を「本戦」と記す。

 

敵の戦略を打ち砕いた戦い

まず紹介したいのは、伊勢安濃津城の戦いである。この籠城戦は、安濃津城主・富田信高の正室が得物をとって活躍したことで知られているが、単に夫婦で奮闘しただけでなく、戦局にも大きな影響を及ぼしている。

西軍は挙兵当初、次のような戦略構想を持っていた。まず、徳川方の拠点・伏見城を攻略して畿内を制圧。続いて、伊勢と北陸を平定する。同時に美濃の岐阜城と大垣城を確保し、美濃と尾張の国境を流れる木曾川を天然の堀として、濃尾国境で東軍と決戦へ…。

この構想を実現するうえで、伊勢は極めて重要であった。というのも、尾張清洲城にある東軍が伊勢方面に進出する可能性がゼロではないからだ。仮にそうなれば、濃尾国境での決戦構想は崩れ去る。西軍は速やかに伊勢を平定すべく、計3万もの大軍を投入した。

しかし安濃津城籠城戦は、その戦略を見事に打ち砕く。西軍の伊勢方面軍は、8月5日に関に着陣。安濃津城攻略を目指した。一方、東軍についた富田信高は、8月10日頃に会津征討の途から帰還して籠城の構えを取る。西軍の九鬼水軍が押さえる伊勢湾を強行突破するという決死行であった。

8月24日、西軍は3万の大軍をもって攻撃を開始。富田信高は僅か千7百の手勢で奮戦するが、26日には開城を余儀なくされた。たった3日間の戦いだが、この籠城戦は大きな意味を持つ。

実はその間に、美濃で大きな動きがあった。8月23日、清洲城の福島正則らが、西軍の岐阜城を瞬く間に攻略、西軍の戦略の一角が崩れたのである。もし富田が安濃津に籠城していなければ、西軍はより早く伊勢を平定し、清洲を牽制していた可能性がある。そうなれば岐阜城陥落はなく、西軍が目論む濃尾国境決戦が起きていたかもしれないのだ。

これにより、西軍は戦略の見直しを迫られた。そして三成は、大垣城を中心とした決戦構想に切り替えたのではないか。つまり、自身が拠る大垣城を東軍に攻めさせ、その外から、西軍が東軍を包囲し、殲滅するというものである。それを窺わせるのが、西軍の南宮山(なんぐうさん)布陣だ。城郭史研究家・中井均氏によると、南宮山の陣地遺構は明らかに大垣城に向けてつくられているという。つまり南宮山布陣は、大垣城に攻め寄せた東軍を、逆に包囲するためのものと考えられるのだ。

一方、岐阜城攻略により東軍は勢いづいた。豊臣恩顧の大名たちの戦意を確認した家康は、9月1日に江戸城を出陣する。豊臣系大名の向背(こうはい)が定まるまで、家康は江戸を動けなかったのだ。結局、安濃津城の戦いは戦局の一大転換をもたらしたといえる。

敵の戦略を破綻させた籠城戦といえば、緒戦の伏見城の戦いもそれにあたると思われるかもしれない。家康の老臣・鳥居元忠は、4万の西軍に対し、千8百で籠城戦に臨み、7月19日から8月1日に至るまで西軍を足止めした。この籠城戦が、東軍に利したことは間違いない。家康にすれば、伏見城を「捨て石」にして三成を挙兵させることに成功し、さらには時間稼ぎができたからである。

とはいえ、これで西軍が戦略の見直しを迫られたかというと、そうではない。西軍は伏見城攻略に苦戦し、これをもって三成を戦下手と評する向きもあるが、伏見城は豊臣秀吉の居城としてつくられた難攻不落の要害で、西軍が手間取るのは当然のことであった。むしろ、伏見城攻略は華々しい戦果といえ、西軍は順当なスタートを切ったとさえ評価できる。伏見城の戦いは、東西両軍それぞれに利点があったといえるのである。

著者紹介

小和田哲男(おわだ・てつお)

静岡大学名誉教授

昭和19年(1944)、静岡市生まれ。昭和47年(1972)、 早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史、特に戦国時代史。著書に、『戦国武将の叡智─ 人事・教養・リーダーシップ』『徳川家康 知られざる実像』『教養としての「戦国時代」』などがある。

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