明治元年9月22日(1868年11月6日)、会津藩が新政府軍に降伏し、会津戦争が終結しました。
8月23日の朝、新政府軍が若松城下に侵攻したところから鶴ヶ城籠城戦が始まります。その時、西郷頼母邸をはじめ、城下の多くの屋敷において、女性たちが城に入って足手まといになるよりはと、自ら命を断ちました。また戸ノ口原の戦場から離脱した白虎隊士中二番隊の少年たちが、飯盛山で自刃を遂げたのもこの日のことです。新政府軍が甲賀口郭門を突破すると、守備していた家老の田中土佐、神保内蔵助は責任をとって藩医の屋敷で切腹します。壮絶な城下の戦いの幕開けでしたが、しかし鶴ヶ城は揺るがず、これからおよそ一ヵ月の間、新政府軍の猛烈な砲撃を受けながら、戦い続けました。
この時、城内に8歳の少女がいました。家老山川大蔵の妹・咲子(後の捨松)です。咲子は後に手記にこう書いています。「私たちにはまだ十分な余裕があると敵に思わせるため、一体何をしたと思いますか。女の子たちは祝日などによく遊ぶ凧を揚げるよう言われたのです。男の子も一緒に加わり、食糧もすっかり底をつき、飢えのためやむなく降伏するまで揚げ続けたのです」。しかし無数の砲弾を撃ち込まれながらも、城内から平然と揚げられる凧は、城外で戦う味方のみならず、新政府軍の将兵にも少なからぬ感銘を与えました。「会津は健在なり」という意思を強く示すものであったからです。
籠城人数は兵士約3200人、婦女子639人、老幼248人、傷病者530人、他国の者456人など、およそ5200余名。相当な人数でした。縁起が悪いとあらかじめ備え米を城内に運び入れていなかったことが仇となり、食糧が不足しました。
8月26日に城東の小田山が新政府軍に占拠されて以来、砲弾は雨あられと城内に降り注ぎ、さらに9月14日から敵の総攻撃が始まると、1日に2000発以上もの砲弾が撃ち込まれました。敵の砲弾の目標はまず天守ですが、もう一つの目標が城内西北の鐘撞堂であったといいます。これはどんなに激戦になっても、時を刻む鐘の音が鳴り続け、それもまた城が健在であることを味方に知らせていたからです。集中砲火で鐘の撞き手は何人も死傷しましたが、ひるむことなく新手の撞き手が交代し、鐘の音を途絶えさせませんでした。これもまた味方の士気を大いに鼓舞したといいます。
しかし盟友の米沢藩が新政府軍の軍門に下り、米沢藩を介して土佐藩が降伏を勧告。勝機は皆無となり、さしもの会津藩も断腸の思いで降伏を決意しました。9月22日午前10時頃。北追手門に降伏と記された白旗があがります。城内に白い布が残っておらず、さまざまな布を女性たちが縫い合わせて作った白旗でした。
会津藩主・松平容保
降伏式は正午頃から城の正面、甲賀町通りで行なわれました。路上に緋毛氈が敷かれ、前藩主・松平容保は麻裃、無刀で、新政府軍の軍監・中村半次郎に降伏謝罪書を提出します。何の謝罪なのか、会津にどんな罪があるというのか、会津の人々に共通する思いであったはずです。無念の涙を流しながら、人々は降伏式の緋毛氈を小さく分けて、この思いを忘れまいと誓いました。 銘々に分けられた緋毛氈は「泣血氈」と呼ばれます。血の涙であったのです。戊辰戦争において、落命した会津藩士はおよそ3000人、自刃した婦女子は233人にのぼりました。「明日よりは いづくの誰か ながむらん なれし御城に残す月影」。開城前夜、スペンサー銃をとって戦った山本八重子は、そう詠んだと伝えられています。
さて、鶴ヶ城が降伏開城すると、新政府軍は戦争首謀者の出頭を求めました。この時、家老の萱野権兵衛が自ら名乗り出ます。
「戦争を指導したのは、田中土佐、神保内蔵助、萱野権兵衛の3家老である。田中と神保はすでに切腹しておるゆえ、それがしが一切の裁きを受け申す」
権兵衛は命がけで、藩主父子に累が及ぶことを防いだのです。そして翌明治2年(1869)5月18日、幽閉されていた久留米藩江戸藩邸から飯野藩保科邸に移り、切腹しました。「其の人、死に臨み従容自若顔色毫も変ぜず」と伝わります。
権兵衛の次男に長正がいます。権兵衛が切腹した時、14歳(没年から逆算)でした。 萱野家は家名断絶となったため、長正は以後、先祖の姓である郡を用い、郡長正と名乗りました。 長正は文武に秀で、他の会津藩(斗南藩)子弟とともに、明治3年(1870)に豊津藩小笠原家に留学します。一年後、小笠原家の子弟と長正との間に諍いが起こりました。長正が母親とやりとりした書簡を落としてしまったのを、小笠原家の子弟に拾われ嘲笑されたためとも、また長州征伐時の小笠原藩の振る舞いについて口論になったためともいいます。長正は藩対抗の剣道試合に完全勝利し、会津人の面目を立てた後に自刃しました。享年16といいます。
長正切腹の理由については、定まってはいないようですが、いずれにせよ、「恥」を重んじた結果であったことは間違いないでしょう。会津の武士が己を律していた厳しさというものを、長正の死は伝えています。
萱野権兵衛の墓(東京都港区 興禅寺)
更新:11月22日 00:05