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キリシタン武将・明石掃部の実像

2016年11月23日 公開
2023年03月31日 更新

『歴史街道』編集部

関ケ原とそれから

一方、国許の宇喜多家家中では、文禄年間頃より当主の秀家が大坂に詰めて不在である中、家臣が保守派と進歩派に分裂し、対立が続いていました。やがて進歩派の処分を秀家に求めて受け入れられなかった保守派が、大坂屋敷を占拠する宇喜多騒動に発展、困った秀家は豊臣家奉行の大谷吉継らに仲裁を依頼しますが、なかなか収まりません。

この時、保守派の一人として秀家と対立したのが、宇喜多左京亮でした。掃部は客将の立場もあり、政治的な派閥には属さなかったようです。結局、徳川家康が仲裁し、保守派が家中を退去することで収まりました。

しかし、この騒動で戸川達安〈みちやす〉、岡貞綱、花房正成ら歴戦の将兵が去り、宇喜多家は一気に弱体化(戦力が3割以上減か)してしまいます。一説にこの騒動の火に油を注いだのは家康であり、五大老の一角、宇喜多家を蹴落とすための策であったともいわれます。

そして、仕置家老の家柄の者が退去してしまったため、急きょ、掃部が仕置家老を務めることになりました。「人並み優れた天性の器量を持ち、家中の采配を任せられる人物」という当時の高い評価も伝わっており、宇喜多家の行く末は掃部の双肩にかかることになったのです。しかし、ほどなく関ケ原を迎えることになりました。

慶長5年(1600)9月の関ケ原合戦では、宇喜多秀家は西軍の副将を務めます。秀家を支えたのが、掃部でした。決戦前日の杭瀬川の戦いでは、掃部は石田三成家臣の嶋左近とともに、東軍の中村・有馬隊を散々に打ち破り、見物していた徳川家康を慌てさせています。

決戦当日、西軍主力である宇喜多隊は天満山付近に布陣し、東軍の猛将・福島正則隊と激突しました。この時、最前線で指揮を執ったのが掃部で、一進一退の攻防を続け、秀家も「明石を討たすな。先手を救え。かかれ、かかれ!」と下知したといいます。

しかし、小早川秀秋らの寝返りによって、勝敗が決したことはよく知られる通りです。この時、激怒した秀家が「かの小倅(秀秋)と刺し違えてくれる」と突撃しようとするのを、「秀頼公の御為、ひとまずは落ちさえそうらえ」と留めたのが掃部でした。

そして掃部は、秀家の脱出の時間を稼ぐべく、敗勢の中、敵を食い止めました。秀家はこの間に、戦場を脱出し、薩摩まで落ちることになります。

一方、頃合いを見て掃部も脱出、大坂から海路、播磨に上陸し、敗残兵をまとめて岡山城に立てこもることも考えたようですが、秀家が行方不明となったためそれも叶わず、掃部も身を隠しました。

関ケ原の翌年、掃部は筑前の黒田長政に見出され、仕官することになります。とはいえ関ケ原の敗北と宇喜多家の滅亡、さらに妻も亡くなり、当時の掃部は世俗を離れ、静かな信仰生活に入ることを望んでいました。

ところがほどなく長政は、掃部から俸禄を召し上げ、蟄居謹慎を命じます。宇喜多秀家が薩摩で存命という噂が流れ、掃部が秀家の許に向かうことで黒田家が徳川から睨まれることを怖れたのでした。そんな掃部に救いの手を差し伸べたのが、隠居していた如水こと黒田官兵衛です。

官兵衛もまたキリスト教に入信しており、掃部の苦境を見かねたのです。官兵衛は掃部を実弟の黒田惣右衛門直之に預けました。直之もまたキリシタンです。掃部は筑前秋月に近い下座〈げざ〉郡に住まい、隠居して、信仰に打ち込む生活を始めました。

慶長9年(1604)、黒田官兵衛が没し、その5年後、掃部を庇護する直之も死去すると、黒田長政は掌を返すように秋月の知行地を没収し、領内のキリシタン内一掃に乗り出します。掃部もこの時、召し放ちとなり、慶長16年(1611)、黒田家を追われました。

浪々の身となった掃部に対し、徳川幕府のキリシタン取締りの強化が迫ります。身を隠して形勢を窺う中、決定的な出来事が起こりました。慶長18年(1613)のバテレン追放令です。これによって全国に約60万人に膨らんでいたキリシタンたちの行き場がなくなりました。

かくして掃部は、キリシタンたちの生きる場所を得るために、徳川幕府と戦うべく、徳川と手切れとなった豊臣家の大坂城に入ることを決意します。時に明石掃部、46歳頃のことでした(辰)

参考文献:小川博毅『史伝 明石掃部』他

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