2016年03月13日 公開
2023年03月09日 更新
翌天正11年(1583)3月下旬、真田昌幸は小県の西の入り口を押さえる虚空蔵山〈こくぞうさん〉城の上杉勢を攻撃、これを一時的に追い払うと、翌月、甲府に在陣中の徳川家康の許に出仕しました。
昌幸はこの時、家康に上杉の脅威と対上杉防衛の重要さを訴えたはずです。おそらく前月の虚空蔵山城攻撃は、対上杉防衛の実例と、それを追い払った自分の実力を具体的に示すためにわざと行なったものでしょう。ドラマではそれをアレンジして、信繁が立案した芝居ということにしていました。
昌幸のねらいは虚空蔵山城目前の海士淵〈あまがふち〉に新たな城を築き、その築城支援を徳川から受けることにありました。
実際、当時、小県の太郎山から西に続く虚空蔵山の北まで上杉氏の支配が及んでおり、真田は常に上杉氏の脅威にさらされていたのです。海士淵に大軍を擁することのできる城があれば、防衛だけでなく攻撃拠点にもなりうるはずでした。
家康は昌幸の築城希望を認め、「近辺の城主へ望みの通り、人夫など助成申すように」(『真武内伝』)と徳川が後押しすることの確約を与えました。これは家康が昌幸の築城に対して、上杉勢力圏である北信濃4郡における、徳川方の重要拠点に成り得ると判断したからに他なりません。
そして4月10日頃より、築城は徳川家全体の事業として始まったと思われます。工事には昌幸以下の小県の者をはじめ、大久保忠世配下の佐久勢やその他の徳川勢も参加し、突貫工事で進められました。
虚空蔵山城から数km先で始まった徳川方の築城を、当然ながら上杉景勝は危険視し、虚空蔵山城に兵力を集めますが、大久保忠世ら徳川勢が本格的に協力している状況にあってはうかつに手出しができず、傍観せざるを得ません。
おそらく昌幸にすれば、徳川の思惑、上杉の事情も読んだ上での敵前築城であったのでしょう。しかし一方で、昌幸は沼田領を譲渡する約定を北条と交わした家康に対して、強い不信感を抱いています。従って徳川の配下として以後も仕える気はなく、せいぜい今、利用できるうちに利用しておけという心情であったのでしょう。
こうして天正13年(1585)、城は一応の完成を見ました。築城当時は伊勢崎城、後に上田城と呼ばれる難攻不落の新たな拠点です。徳川の力を大いに利用して築城した挙句、その後、この城で二度も徳川軍を撃退することを思えば、昌幸のしたたかさが改めて感じられるでしょう(辰)
更新:11月22日 00:05