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真田昌幸・信尹兄弟の謀略と碓氷峠遮断

2016年03月06日 公開
2023年03月09日 更新

『歴史街道』編集部

 

真田信尹による牧之島城の謀略

真田昌幸の弟・信尹〈のぶただ〉(加津野信春)は、武田家の部将として活躍していましたが、武田家滅亡後は兄を頼って信濃に逃れ、兄・昌幸とともに上杉家に従属します。やがて北条氏直の信濃侵攻により、昌幸は北条家に転じますが、信尹は上杉家に留まりました。実は信尹は、昌幸の命による、上杉方調略の任務を請け負っていたのです。この辺はドラマでも触れられています。

では、上杉家に留まった信尹の任務とは、具体的に何であったのでしょうか。ドラマの進行よりも少し遡って紹介します。天正10年(1582)7月、上杉軍の一員として信州を南下した信尹は、牧之島城を奪取しました。

牧之島城は現在の上水内郡信州新町牧之島にあった犀川沿いの城で、元は香坂氏の城です。武田信玄によって武田の城となり、馬場美濃守信房が改修を行なって城代を務めました。信房が長篠の合戦で討死すると、その子・昌房が城将となりますが、武田家滅亡後は空城同然の状態となり、それを真田信尹ら上杉軍が押さえたのです。

その後、北条氏が信濃に侵攻すると、真田昌幸は牧之島城にいる信尹と連絡を取り合い、北条軍を引き入れて、牧之島城を北条氏のものとする密謀を進めました。もちろん北条側も真田兄弟の計略に賛同し、城に夜襲を仕掛けるべく準備します。

また信尹は、北条軍を夜間に引き入れるべく手配りする一方、北信濃衆・山田右近尉を味方に取り込もうと誘いました。ところが信尹のあてが外れて、山田は謀略に加担しなかったばかりか、その計画を上杉方に告げ、結果、信尹は上杉家を退去することになるのです。

北条軍は牧之島城近くまで進軍したところで、密計発覚の報せを受け、あわてて夜道を引き返すことになりました。この作戦失敗を北条家では「夜崩れ」と称したようです。逆に上杉家にすれば、危ういところで真田の謀略と北条家の奇襲を防いだといえるでしょう。

牧之島城奪取失敗は、海津城の春日信達の処刑ともども、北条軍の対上杉戦への意欲を失わせました。そして、真田昌幸が止めるのも聞かず、北条氏直は上杉との決戦を諦めて、軍を反転し、甲斐に侵攻中の徳川家康軍と対峙すべく南下するのです。

多少うがった見方をすれば、この牧之島城奪取失敗は、真田兄弟が北条氏の戦意喪失を狙ってわざと仕組んだもので、上杉家に謀略を仕掛けていると見せかけて、実は北条氏に謀略を仕掛けていた可能性もあるかもしれません。だとすれば、実に巧妙な謀略です。

なお、上杉家を去った真田信尹は、徳川と北条の戦いが甲斐で始まると、徳川に身を投じます。それを指示したのが兄・真田昌幸であったことは、まず間違いありません。

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