2016年03月13日 公開
2023年03月09日 更新
天正10年(1582)10月27日、徳川と北条両氏の和睦が成立し、翌日、和睦覚書が作成されて、本能寺の変以後に生起したいわゆる「天正壬午の乱」は幕を閉じます。しかし同じ28日、新たな衝突が始まりました。沼田城をめぐる真田と北条の戦いです。
北条と徳川は和睦を結ぶにあたり、およそ以下のような条件を決定していました。「1.北条氏は、占領していた甲斐国都留郡(郡内)と信濃佐久郡を徳川氏に渡す」「2.徳川氏は、北条氏の上野国領有を認め、真田昌幸が保持する沼田領を引き渡す」「3.北条氏直の正室に、家康の息女督姫を輿入れさせ、両氏は同盟を結ぶ」。
北条と徳川の対立は、徳川家康優勢のうちに和睦に至ったとはいえ、北条氏直本隊は無傷であり、家康は決して北条を圧倒していたわけではありません。そのため、北条が信濃国を徳川に譲る代わりに、上野国一国の確保を強く要求すると、徳川としてもこれを拒むことはできませんでした。この辺はドラマの中でも触れられていました。
問題は上野国には真田の沼田領が含まれていることです。もちろんこの取り決めは真田昌幸の頭越しに行なわれており、真田としては当然ながら容認できるものではありません。
そして北条勢は、徳川との和睦成立と同時に、沼田城に攻め寄せます。沼田城を守るのは、真田昌幸の叔父・矢沢頼綱。百戦錬磨の武将でした。北条軍の主体は北条氏邦率いる鉢形衆で、両軍はまず森下(群馬県昭和村)で衝突、真田勢は沼田城内に後退しました。
沼田城を攻めるとなると、要害堅固で知られる城であるだけに、さすがに北条氏邦も力攻めは難しいと判断、補給ルートを断って兵糧攻めにする作戦に切り替えます。
ただし、北条の沼田攻めは、周囲にも波紋を及ぼしました。北条が徳川と同盟を結んだことで、その矛先を再び東に向けるであろうことを佐竹、結城、宇都宮ら北関東の勢力が警戒し、彼らは徳川と結びつくことによって、北条氏を牽制しようとしたのです。
家康にしても北関東の勢力と結びつきを強めることは、同盟相手の北条氏に対する抑止力になりうるわけで、歓迎すべきものでした。こうした北関東勢力が注視する中での沼田城攻めは、北条氏としては様々な面でやりにくかったことでしょう。そして沼田城をめぐる戦いは、この後も天正17年(1589)に豊臣秀吉の裁定で真田氏が城を明け渡すまで続きます。
更新:11月22日 00:05