2015年04月28日 公開
2022年12月07日 更新
こんにちは。今日は平成27年(2015)4月28日(火)です。
好評発売中の「歴史街道」5月号「刀剣と乱世」に関する話を続けて参りましたが、今回の「三所物」の話で締めさせていただきます。
「三所物」…「みところもの」と読みます。今月号では写真は掲載しているのですが、詳しい説明は誌面の関係でできませんでした。この場を借りて、少々解説させていただきます。
三所物とは、「小柄〈こづか〉」「笄〈こうがい〉」「目貫〈めぬき〉」の3つの総称で、刀剣の装具になります。
「小柄」は刀の鞘〈さや〉の鯉口の部分にさしそえる小刀のこと。「笄」は刀の鞘の差し表にはさむヘラに似たもので、髪をかきあげたり、烏帽子や冑をかぶった際に頭がかゆくなったら掻くのに用いたといいます。「目貫」は刀剣類の柄の側面につける飾り金物です。
これらは本来、刀に付随する「部品」に過ぎない存在です。しかしそこに、優れた技と美的な感覚を持ち込み、芸術品としての高みにまで押し上げたのが、室町時代の金工職人・後藤祐乗〈ゆうじょう〉でした。
祐乗は、美濃国の生まれで、室町幕府の8代将軍足利義政の側近として仕えました。伝承ですが、同僚からの讒言を受けて入獄した際、小刀と桃の木で神輿船や猿を刻んだ出来栄えが素晴らしく、義政によって赦免され、装剣金工に転じたとされます
後藤家は始祖の祐乗以来、足利幕府から織田信長、豊臣秀吉、そして徳川将軍家に仕え、幕末まで17代を数えます。後藤家の「家彫」と呼ばれる三所物は、不動のトップブランドとして約400年にわたって君臨しました。
後藤家にはもう一つの側面があり、4代・光乗は織田信長に仕え、天正9年に信長の命により大判の鋳造と両替商が使用する分銅の鋳造を拝命しています。豊臣の世になっても引き続き大判・分銅の鋳造を担い、彫金のほか経済の面でも重用されました。
後藤家は京都の有力な町衆に成長し、茶屋家と角倉家とならんで京都三長者の一家と見なされるまでになります。大判と分銅の鋳造を担う大判座と分銅座の頭人を務め、幕府の経済政策を支えました。
後藤家の始祖・祐乗が造り出した三所物の作風は、質実剛健でありながら絵柄に効果的に金を使って豪華さを演出した、当時の武士の好みに合致したものとされます。
その後、江戸時代になると、泰平の世にふさわしく繊細で芸術性に優れた作品が代々製作されます。また、大名家や旗本の正式な拵には、後藤家で製作された三所物を用いることが慣例とされました。
一方で、後藤家以外の装剣金工師の作品も多く製作されました。後藤家の「家彫」に対し、後藤家の下地師であった横谷宗眠が「町彫」と呼ばれる自由なデザインの作品を発表します。家彫と町彫は競合しながら、互いに芸術性を高めていきました。
三所物だけでなく、鍔も芸術性に優れたものが数多くあります。装剣金工たちは、小さな限られたスペースを効果的に使い、細微な細工や、奥深ささえ感じさせる図柄を表現していきました。
特集にご登場いただいた銀座長州屋の小島つとむさんは、三所物などの金工装飾の鑑賞法について、「美術館で見るように、“絵”として楽しむといいですよ」とアドバイスしています。
確かに、細工の精緻さや、図柄の斬新さ、空間の利用の仕方など、絵画を鑑賞するように見ると、違った一面が発見できるような気がします。
素材を自在に操る熟練の技巧、研ぎ澄まされた美的感覚、そして飽くなき職人魂…刀だけでなく、鍔や三所物に込められたものも“感じながら”鑑賞すれば、刀の世界にもう1つの楽しみ方が見つかることでしょう。(立)
写真は花卉を表現した三所物と、江戸時代の有名な金工師・石黒政美作の鍔(写真提供:銀座長州屋)
更新:11月23日 00:05