
写真:玄蕃尾城跡の主郭入口
柴田勝家と羽柴秀吉が賤ケ岳で決戦におよぶ前、両陣営は各地で防備を固めていた。それは賤ケ岳周辺にとどまらず、越前、若狭という現在の福井県の城にも影響をおよぼしていた。歴史街道編集部がそれらの城を訪ねると、賤ケ岳合戦の意外な側面が見えてきた。
写真:玄蕃尾城跡の登城口
柴田勝家と羽柴秀吉が対峙した賤ケ岳の戦いといえば、勝家の勢力圏である越前と、秀吉の勢力圏である近江の国境で生じたというイメージがあるだろう。
事実、賤ケ岳周辺における決戦そのものだけを見ると、それは間違いない。
だが当時、柴田勝家軍が近江ではなく、越前から若狭に攻め入る可能性はなかったのだろうか。そんな素朴な疑問から、越前と若狭における賤ケ岳合戦関連の城を訪ねてみることにした。
まず向かったのは、賤ケ岳の戦いで、柴田勝家が本陣を置いた玄蕃尾城跡(福井県敦賀市)だ。
JR敦賀駅からは、車でおよそ25分。登城口には駐車場や仮設トイレ、パンフレットもあるので、登る際にはパンフレットを手にしてからがいいだろう。
今回は、敦賀市文化交流部の学芸員・中野拓郎さんにご案内いただくことに。
ところで、車の道中で思ったことだが、かなり山道を進んできたようにみえるこの地に、なぜ、柴田勝家は本陣を築いたのだろうか。
「この道は刀根坂といって、明治時代以前は多くの人や物が行き交うメインルートだったんです」
中野さんによると、敦賀から近江の長浜方面に向かう際、このルートだと高低差が少なく、物資を運ぶうえでも最適だそうだ。
ちなみに、朝倉氏の滅亡を運命づけた刀根坂の戦いはまさにこのルート沿いで行われ、近江から撤退する朝倉勢は、追いすがる織田勢に一方的に攻撃され大部分が討ち死にしたという。
玄蕃尾城の築城時期は定かではないが、勝家はそうした朝倉氏の潰走を知っているからこそ、この地に、敵を食い止められる城を築いたとも考えられるそうだ。
さて、実際に城跡を目指して歩くが、20分ほど登ると、明らかに山城とわかる遺構が見えてくる。
最初に姿を現わすのは郭1で、入口部分の虎口を抜けると、右手側が高くなっていて、側面から攻撃ができるつくりとなっている。
さらに虎口郭にかけては緩やかな登りとなっている。
写真:郭1の虎口で、ここを抜けると右手が高くなっている
「この城は郭が上がるごとに高さをつけ、高所から銃撃できるつくりになっているんです。高低差をうまく生かした城といえます」
中野さんがいうように、虎口郭や馬出郭方面に目を向けると高くなっていて、銃撃を浴びそうだ。
写真:郭1から虎口郭を見上げる
さらに主郭部分も周囲に土塁が巡らされていて、侵入しようにも、相当苦戦を強いられるだろう。
実際に主郭部分に入るとそこは広く、北東部には櫓が立っていたという。勝家も櫓に上り、その目で、対峙する羽柴軍を見つめたのだろうか。
写真:主郭。右手の白い碑周辺が櫓台
主郭を抜けた後も、馬出郭と郭2と続き、勝家が企図したように、敵を食い止めるのに十分な構造になっている。
残念ながら、賤ケ岳合戦において柴田軍は総崩れとなったために、この城に留まることなく撤退。玄蕃尾城はその後、手付かずのまま廃城となった。
だがそれゆえに、いまでも遺構が良好な状態のまま残されている。それらの遺構は、賤ケ岳合戦当時の勝家の心情を現代に伝えてくれているようだ。
写真:国吉城本丸跡から若狭湾と敦賀方面を望む
次に向かうのは、若狭国の東側の要衝であった国吉城跡(福井県美浜町)だ。
玄蕃尾城跡からは車で約35分、城の麓にある若狭国吉城歴史資料館に車を停められる。最寄りの美浜駅からは徒歩30〜40分ほどで、駅内の若狭美浜観光協会にはレンタサイクルもある。
さて、資料館内には、城の立体模型や解説板があるので、まずはそちらを観賞してから城に向かうと歩きやすいだろう。
写真:若狭国吉城歴史資料館内の国吉城址地形模型
今回は、資料館の館長を務める大野康弘さんにご案内いただくことに。
そもそも国吉城は、弘治2年(1556)に若狭の大名・武田氏の家臣である粟屋氏によって築かれた。城は、朝倉氏の侵攻を10年にわたって退け続けたことから、「難攻不落の城」といわれる。
「織田信長が永禄13年(1570)に朝倉攻めをした際には、織田信長、羽柴秀吉、徳川家康の三英傑が揃った城でもあります」
そう語る大野さんとともに、城を登ることに。まずは資料館北西に歩いていくと、城主居館跡があり、石垣を見ることができる。
国吉城は賤ケ岳合戦後、秀吉家臣の木村常陸介が城主となり、関ケ原合戦後は、京極氏の支配下に置かれたが、通路手前には木村氏時代の石垣が、その奥には京極氏時代の石垣が見える。
明らかに積み方が異なり、この城の変遷を感じさせる。その居館跡を左手に見ながら登っていく。
写真:木村常陸介時代に築かれた石垣
写真:京極氏時代に築かれた石垣
道のりは整備されていて歩きやすいが、つづら折りの道が続き、攻め手がかなり苦戦するだろうことがわかる。また急な堀切部分もあり、通路以外のところから攻めるのは容易ではないだろう。
さて、30分ほどかけて本丸跡に至ると、若狭湾や敦賀方面を眼下に望むことができ、かつ東側斜面がかなり急だと見て取れる。
「この城は、越前国方面から攻められることを意識して、つくられているんです」と大野さんがいうように、越前国方面に対して鉄壁の守備を誇り、だからこそ、朝倉氏の侵攻を防げたのだろう。
写真:国吉城の本丸跡
では、この城は賤ケ岳合戦とどんな関係があるのだろうか。
「賤ケ岳合戦当時、若狭は秀吉方の丹羽長秀が治めていて、国吉城は対柴田の最前線でした。そのため、長秀が城主・粟屋勝久に城の修築を急がせた書状も残されています」
大野さんによると、本丸周辺の石垣には、そのころに築かれたとみられるものもあるという。
やはり当時、柴田勝家が若狭に攻め入ることも、想定されていたのだ。
写真:後瀬山城跡の登城口
最後に訪ねるのは、若狭の小浜に築かれた後瀬山城だ。
登城口のある愛宕神社は、国吉城跡から車で約35分、小浜駅からは歩いて10分ほどだ。
こちらの城は、小浜市経済産業部の西島伸彦さんにお話をうかがってから登ることに。
そもそも後瀬山城は、大永2年(1522)、若狭国守護の武田元光によって築かれた。その後、天正元年(1573)頃に丹羽長秀が若狭を支配し、後瀬山城の城主となっている。
「上洛後の信長は、若狭や近江に重要な家臣を配置しており、それは京都を安定させるためだったのでしょう。また後瀬山城のある小浜は、京都に最も近い港湾都市で、その点でも、重要でした」と西島さん。そうした地勢を踏まえると、若狭は想像以上に要衝といえる。
さて、実際に後瀬山城跡を登っていくが、こちらも歩道が整備されていて、歩きやすい。ただ、歩道の左手を見ると、急な斜面になっていて、容易に攻め上れないつくりになっていることがわかる。
さらに中腹は、右手が段々状の郭となっていて、連郭群を形成している。つまり、左手は斜面、右手は連郭群で、攻め手を寄せ付けない構造となっているのだ。
写真:右手が後瀬山城跡の連郭群
ちなみに、西島さんによると、この城は西側に畝状空堀群などが配されていて、西への防備を意識したつくりになっているそうだ。
連郭群を右手に見ながら進むと、開けた場所に至るが、その先には、左右が堀切となっている細い土橋がある。攻める場合には、この細い道を通るため、攻め手はここでも損害を被ることだろう。
写真:中央が土橋で左右が堀切
土橋を上がっていくと、石垣のある主郭へと至る。主郭周辺には、野面積みに近い石垣があり、これは丹羽長秀が柴田勝家との戦いに備えたものとする見方もあるが、正確にはわからないそうだ。
写真:主郭を望む
主郭周辺からは、若狭湾を望むことができ、この城がやはり、若狭を守るうえで重要な拠点であることが実感できる。
ここで、ひとつの想像がうかんできた。仮に、丹羽長秀が秀吉ではなく、柴田勝家に与することを選んでいたら……。
そうなれば、柴田方は越前だけでなく、若狭から秀吉を牽制する形となり、日本海側の物流も押さえられる。きっと、秀吉にとっては苦しい展開となっただろう。
それは仮説だが、若狭は、柴田勝家と秀吉の戦いを考えるうえで、重要な意味を持っていたのだ。
今回は、玄蕃尾城跡、国吉城跡、後瀬山城跡と、福井県の城跡を巡ってみたが、それらの城跡は、柴田勝家と秀吉の戦いにおける最前線といってよく、なおかつ、賤ケ岳合戦にまつわる様々な視点を提供してくれるのであった。
写真:後瀬山城跡主郭周辺から若狭湾を望む
地図:福井県内の賤ケ岳合戦ゆかりの城跡
更新:08月24日 00:05