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古代から近現代まで...元寇激戦の島・壱岐は歴史の交錯地だった!

歴史街道編集部

原の辻遺跡写真:原の辻(はるのつじ)遺跡

蒙古襲来時の激戦地・壱岐には、現在でも、それにまつわる史跡が多く残されている。同時に、『魏志』倭人伝に記された「一支国(いきこく)」の王都と特定された原の辻遺跡や数々の古墳、豊臣秀吉が朝鮮出兵に備え築いた勝本(かつもと)城、さらには昭和に築かれた黒崎(くろさき)砲台跡など、古代から近現代にいたるまで、幅広い時代の史跡が数多く存在する。歴史の交錯地ともいえる壱岐を、編集部がめぐる。

古代、交易の地として

壱岐市立一支国博物館 写真:壱岐市立一支国博物館

長崎県の壱岐市には数多くの史跡があり、様々な視点から、歴史を感じ取ることができる。今回は古代から近現代までの時代ごとの歴史を、車でたどることにした。

まず足を運んだのは、芦辺(あしべ)港から車で15分ほどの壱岐市立一支国博物館だ。

壱岐市文化スポーツ振興課文化財班の松見裕二さんに案内していただきながら、館内をめぐる。

博物館には、原の辻遺跡をはじめ、島内の遺跡や古墳からの出土品が多数展示されている。

「壱岐は、中国の歴史書『魏志』倭人伝にも『一支国』の名で記されていて、海外との交流・交易を行なう外交都市でした。そんな一支国の拠点として栄えた場所が、原の辻遺跡です」

次に、実際に原の辻遺跡を歩くことに。博物館からは車で5分ほどだ。

原の辻遺跡には、竪穴住居や物見櫓など17棟の建物が復元されており、この地が交易でにぎわっていた姿が目に浮かぶようだった。

 

古墳時代の足跡

双六古墳写真:双六(そうろく)古墳

壱岐には、280基以上もの古墳がある。

松見さんの案内で、原の辻遺跡から車で15分ほどの双六古墳へ向かう。双六古墳は、6世紀後半に造られた県内最大の前方後円墳だ。

古墳の前方部分に登ってみると、その大きさに驚かされる。

「壱岐の古墳には、日本の他の地域で見られる古墳とは異なる点が多数あります。

例えば、埴輪が出土していないこと。諸説ありますが、埴輪には、埋葬された人が寂しくないように並べる意味があったとされます。

しかし、壱岐の古墳は、埋葬後も人々が石室に入れるつくりになっているため、埴輪を並べる必要がなかったようです」

次に訪ねたのは、双六古墳から車で約2分の掛木(かけぎ)古墳。7世紀前半に造られた円墳で、県内で唯一、刳抜式家形(くりぬきしきいえがた)石棺という、石を刳り抜いて造った棺が置かれた古墳だ。

この古墳、なんと石室に入ることができる。入ってみると、石棺がそのままの姿で残っている。古代の息吹を感じられる貴重な機会に、思わず胸が高鳴る。

市内には掛木古墳以外にも、内部に入れる古墳が多数あり、古墳群を目当てに壱岐を訪れる人も多いそうだ。

掛木古墳写真:掛木古墳

掛木古墳内の石棺写真:掛木古墳内の石棺

 

元軍との激戦が繰り広げられ...

新城神社写真:新城(しんじょう)神社

鎌倉時代、日本を揺るがす大事件が勃発する。元軍による、2度の日本襲来だ。壱岐の地でも激戦が繰り広げられ、今もそれにまつわる史跡が多数残されている。

壱岐市文化スポーツ振興課文化財班の立石徹さんにご案内いただきながら、蒙古襲来関連の史跡をめぐることに。

文永11年(1274)、元軍が最初に来襲した文永の役に際して、この地で元軍を迎え撃ったのが、壱岐守護代を務めていた平景隆(かげたか)だ。

景隆は居城・樋詰(ひのつめ)城から100余騎を率いて出陣し、唐人原(とうじんばる)などで元軍と激戦を繰り広げるも、退却を余儀なくされ、樋詰城で包囲され自害したとされる。

樋詰城の跡地と考えられている新城神社は、掛木古墳から車で8分ほどのところにあり、境内には平景隆の墓もある。

「実はこの神社は、明治期に造られたものなんです。文永の役は短期間で終わったこともあり、壱岐には元寇の考古学的な痕跡が残っていません。

ただ、戦いにまつわる言い伝えが多く残されているので、元側の史料とともに、多角的に組み合わせて検証していく必要があります」

文永の役で激戦が繰り広げられた地としての伝承があることから、新城神社の近くには「文永の役 新城古戦場」の碑が建っている。

田畑に囲まれた穏やかな地であるが、かつて平景隆らが未知の敵と果敢に戦ったことが、まぎれもない史実として実感される。

文永の役新城古戦場写真:文永の役新城古戦場

文永の役から7年後の弘安4年(1281)、壱岐に再び元軍がやってくる。

この際、元軍相手に奮戦した人物として知られるのが、壱岐守護代だったとされる少弐資時(しょうにすけとき)だ。

「文永の役 新城古戦場」の碑から車で約8分、資時が祀られている壱岐神社へと向かう。

白い大きな鳥居が目を引く壱岐神社は、昭和に創建され、本殿内には蒙古襲来時の碇石(いかりいし)との伝承が残る石や、資時の奮闘を描いた絵画が飾られている。

「襲来時の碇石とされる石は島内に多数あるのですが、壱岐の江戸時代の文献には『碇石にいたずらをすると祟られる』との言い伝えがあります。元軍の脅威は、後の時代の人々にも受け継がれていたのでしょう」

と、立石さん。

神社の裏手を山側に歩いていくと、少弐資時の墓が現われる。19歳にして元軍と懸命に戦い、若い命を散らした資時の姿が思い浮かび、胸が詰まる。

壱岐神社写真:壱岐神社

少弐資時の墓写真:少弐資時の墓

壱岐神社から車で約3分、芦辺港のターミナルには、元寇720年記念事業に際して建立された少弐資時像が勇姿を見せ、今もなお、芦辺港から往来する人々を見守っているようにも思えてくる。

少弐資時像写真:少弐資時像

 

戦国時代の史跡も

聖母宮写真:聖母宮(しょうもぐう)

次に向かったのは、少弐資時像から車で約15分の馬場先(ばばさき)元軍上陸地の碑だ。文永の役の際、元軍は三方向から壱岐に上陸したとされ、馬場先はそのうちの一つである。

馬場先元軍上陸地の碑からすぐ近くには、奈良時代初期に創建された古社、聖母宮がある。

豊臣秀吉による文禄の役の際、この地には日本軍が駐屯しており、聖母宮の表門と石垣は加藤清正が、裏門は鍋島直茂が寄進したものだという。

聖母宮では御朱印をいただくこともでき、種類も多彩だ。壱岐には1000近い神社があるが、聖母宮以外にも、御朱印をいただける神社が多数ある。

御朱印をいただく際には事前予約が必要な神社も多いので、壱岐観光ナビなどのポータルサイトで調べてから訪ねるといいだろう。

ちなみに、聖母宮の近くには、江戸時代に朝鮮から日朝友好の証として派遣された朝鮮通信使の迎接所跡地もある。

続いて、聖母宮から車で4分ほどの勝本城跡に向かうことに。

勝本城は朝鮮出兵の際に秀吉が築城を命じた城で、天正19年(1591)、松浦鎮信(まつらしげのぶ)が中心となり、なんと4カ月で築城したものだという。朝鮮半島に向かう兵士の食糧や武器等の補給を行なう兵站基地として機能したそうだ。

美しく積み上げられた石垣が今も残されていて、見事だ。再び松見さんに伺うと、この石垣は戦国時代に活躍した石工集団、穴太(あのう)衆の技術が凝縮されたものだそうだ。

「勝本城は、徳川家康の時代になると、朝鮮との関係改善の意思表示として壊されています。朝鮮通信使は、日本が勝本城を壊したことをその目で確認しており、この城がいかに重要なものであったかが窺えます」

勝本城写真:勝本城跡

最後に、昭和8年(1933)に建造された黒崎砲台跡を訪ねた。勝本城跡からは車で約16分だ。

黒崎砲台は、対馬海峡を通過する艦船を攻撃するために設置されたもので、当時、東洋一の射程距離を誇った砲台である。

砲台の近くには、猿岩(さるいわ)と呼ばれる猿の形をした岩が見られるスポットがある。そこにある土産店の裏側のスロープを上がると、砲台跡の大穴を上から見学することができる。

巨大な穴を覗いてみると、その大きさに驚かされる。実戦で使用されることはなかったそうだが、戦前の日本が感じられる貴重な戦争遺産だ。

黒崎砲台跡写真:黒崎砲台跡

古代から近現代までの壱岐の史跡をたどってみると、交易の場として栄えるだけでなく、軍事的にも重要な土地であり、折々の時代において、要衝として機能していたことが実感される。

壱岐は様々な視点から歴史をたどれる地だ──その魅力を改めてかみしめながら、この地を後にした。

 

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