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文永の役で奮闘した父娘の姿も...壱岐で辿るもうひとつの「元寇」

2024年03月15日 公開
2024年03月25日 更新

歴史街道編集部

少弐資時像
↑少弐資時像/小金丸幾久(壱岐出身)作

今年は蒙古襲来から750年にあたる。鎌倉武士が博多で奮闘したことはよく語られるが、実は長崎県の壱岐でも、激戦が繰り広げられていた。そして壱岐には、いまも数多くの史跡が残されているという。その情報をもとに編集部が現地を訪ねると、教科書ではうかがい知れない「元寇」の姿が見えてくるのだった。

 

文永の役で父と娘は...

浦海湾と文永之役元軍上陸地の標柱
↑浦海湾と文永之役元軍上陸地の標柱

もう、到着したのか──。

船旅ということもあり、少しだけ身構えていたのだが、博多港から壱岐の芦辺港までは、高速船のジェットフォイルでわずか1時間ほど。拍子抜けするくらい早く、現地に到着したのだった。

船を降り、港のターミナルへと歩いていくと、雄々しい騎馬武者像が目に飛び込んでくる。弘安の役で奮戦した少弐資時(しょうにすけとき)像だ。

その像をみると、この島がまさに蒙古襲来の地であることが、実感される。壱岐は、文永の役と弘安の役で、ともに元軍から攻撃を受け、戦場となっているのだ。

では、この地で何が起きたのか。壱岐市文化財保護審議会副会長の松崎靖男さんに、文永の役関連の史跡を案内していただきながら、車でめぐることとなった。

文永11年(1274)10月14日、午後4時ごろ、壱岐の北西海岸沖に、900隻の元の軍船が姿を現わし、約400人が上陸した。

元軍は、浦海(うろみ)、馬場先(ばばさき)、天ケ原(あまがはら)の三方向から上陸したとされるが、まずは、浦海を訪ねることとする。

島の北東側にある芦辺港から出発して、西へ約20分。島の北西側にある浦海神社へと到着すると、目の前に浦海湾が広がる。その神社の鳥居の右手前に「文永之役元軍上陸地」の標柱がある。

「元寇の前、浦海は資料に『千軒あり』と記されています。数多くの家があって賑わっていた、という意味でしょう」と松崎さん。そこに元軍がやってきたのだから、被害も大きかったことだろう。

松崎さんにうながされて神社の後方に回り込むと、石積みの塚がある。元寇での犠牲者を埋葬した千人塚で、壱岐にはこうした塚が数多く残されているそうだ。平和に暮らしていたであろう壱岐の人々が突如として元軍に襲撃されたと思うと、胸が痛む。

浦海の千人塚
↑浦海の千人塚

「塚だけではなく、逃げ惑った人々が、穴を掘って身を隠した『隠れ穴』も、残されているんですよ」

浦海から東南へ15分ほどいくと、国道三八二号線沿いの柳川バス停近くに、「自徳庵(じとくあん)のかくれ穴」と記された白木の案内がある。車を降りて道を進むと、左手奥の地中に大きな穴がみえてくる。

ぽっかりと空いた空間は生々しく、ここに身を潜めた人々の、緊張感が伝わってくるようだ。

自徳庵
↑自徳庵のかくれ穴

次はもうひとつの上陸地、馬場先へと向かう。国道三八二号線を北上し、漁師町の風情が香る勝本浦を進む。すると、聖母宮(しょうもぐう)という神社のすぐ西に、「馬場先元軍上陸地」の標柱がみえてくる。

ちなみに、その隣の大きな碑は神功皇后伝説に関するもので、聖母宮も神功皇后を祀っている。

松崎さんが「戦国時代の文禄の役では、ここには日本軍が駐屯しました。聖母宮の表門と石垣は加藤清正が、裏門は鍋島直茂が寄進したものなんですよ。またこのすぐ南側には、豊臣秀吉が築かせた勝本城跡もあります」と教えてくれる。勝本は古代から、要衝の地だったのだろう。

馬場先元軍上陸地
↑馬場先元軍上陸地

3つ目の上陸地、天ケ原はそこから車で7分ほど。東に向かうと開けた海岸線がみえ、車を降りて、植物が茂る坂道を上ると「元寇千人塚」(天ケ原千人塚)の標柱が立ち、植物に守られるようにして塚がある。そこから望む海岸線はとても美しく、元寇以前には、島民もこの眺めを愛でていたことだろう。

「実際に、元軍と日本軍が戦った場所にもいってみましょう」

松崎さんの案内で県道二三号線を南東に進むと、県道沿いに「文永之役唐人原(とうじんばる)古戦場」や「文永之役高麗橋(こーれーばし)古戦場」といった小さな標柱があり、さらに「文永の役 新城古戦場」という大きな案内板にいたる。天ケ原からは8分ほどだ。

文永の役当時、壱岐を治めていた壱岐守護代・平景隆は、10月14日、百余騎を率いて居城の樋詰城を出撃。唐人原や高麗橋などで元軍と戦い、翌15日、樋詰(ひのつめ)城に包囲されて自害したという。

「文永の役 新城古戦場」にも千人塚がある。関連する史跡を代表して、この地に石碑を立て、顕彰したものだそうだ。

文永の役 新城古戦場
↑文永の役 新城古戦場

樋詰城の跡地と考えられている新城神社は、新城古戦場の西南近くに鎮座し、平景隆公の墓所もある。

「伝承によると、景隆には姫御前(ひめごじょう)という娘がいて、大宰府に知らせるために従者とともに城を脱出しました。しかし、元軍の毒矢に射られ、道中で自刃したといいます」

松崎さんに教えてもらい、神社の南に数分いくと、道の北側に「姫御前塚」という案内板が立ち、その裏手に塚があった。未知の敵に直面しながらも、島を何とか守ろうとした父娘を想うと、ただただ胸が詰まるのだった。

新城神社↑新城神社(樋詰城跡)

姫御膳塚
↑姫御膳塚

 

弘安の役で奮闘した若武者

壱岐神社
↑壱岐神社

文永の役から7年後の弘安4年(1281)、壱岐は再び元軍の来襲を受ける。5月21日に対馬を襲った元軍が、壱岐の勝本と瀬戸浦にも攻め込んできたのである。それらの史跡をめぐるべく、今度は壱岐市教育委員会文化財班の立石徹さんに案内していただく。

まず向かったのは、壱岐神社。先ほどの姫御前塚からは車で12分、芦辺港からだと5分ほどだ。

「壱岐には平安時代からつづく神社が多いのですが、この神社は壱岐で一番新しいんです」

立石さんによると、昭和19年(1944)、弘安の役の際に壱岐守護代だったとされる少弐資時を祭神として創建されたそうだ。

本殿内に入ると、元寇時の碇石とされている石や、資時の絵画が展示されている。
また、境内には「弘安の役瀬戸浦古戦場」の案内板が立つ。「おそらく元軍は、瀬戸浦の上陸しやすい場所から、進軍してきたのでしょう」と立石さん。

当時、弱冠19歳の少弐資時は、その元軍相手に奮戦したものの、討死してしまう。神社の裏手の山側に歩いていくと、瀬戸浦を見渡せる高台にも元寇の碇石が展示されており、さらに進むと、少弐資時の墓がある。

若いながらも命を懸けて戦った資時。その姿を思い浮かべると、哀惜の念が湧いてくるのだった。

少弐資時
↑少弐資時の墓

「壱岐神社の近くにも、千人塚があります」と、立石さんの案内で数分歩くと、「少弐の千人塚」がみえてくる。当然だが、こうした千人塚から 慮るに、一般の島民も大きな被害をうけたのだろう。

最後に、再び車に乗って10分ほど西へいくと、「千本供養塚」へといたる。

「ここは、江戸時代の古文書に、元寇時の供養塚として記されていて、少なくとも当時から元寇に関連づけて考えられていたことがうかがえます」

立石さんの話から察するに、元寇の記憶は、壱岐に深く刻まれたのだろう。

「かつて壱岐では、『言うことを聞かないとムクリコクリが来るぞ』といって子どもを叱っていました。このムクリは蒙古兵、コクリは高句麗兵を指すと考えられています」

壱岐の人々の、元寇で味わった苦難を後世に語り継ごうとの意志が伝わってくるようだ。

元寇というと、博多方面での戦いを中心に語られることが多い。しかし今回、壱岐を訪ねたことで、元寇の語られざる歴史を知り、最前線で奮闘した人々の姿に触れることができた。

歴史というものは、やはり現地でしかみえないものがある──。そんな感慨を抱きながら、壱岐を後にしたのであった。

千本供養塚
↑千本供養塚

 

【コラム】紫式部の時代に起きた「刀伊(とい)の入寇」

藤原理忠精忠碑
↑藤原理忠精忠碑

壱岐が海外勢力に襲撃されたのは、元寇が初めてのことではない。その約250年前の寛仁3年(1019)、刀伊と称される女真人の一族が、襲来したのである。世にいう「刀伊の入寇」だ。

藤原道長が「この世をば、我が世とぞ思う望月の...」と詠じたのは、その一年前のことで、紫式部が活躍したのも、この頃のこと。華やかな都とは対照的に、壱岐は重大な危機に直面していたのだ。

刀伊は、壱岐の片苗湾から上陸した。前出の松崎さんによると、かつて片苗湾は現在の久保内橋付近まで迫り、そのあたりから刀伊が上陸したのだろうという。

これを迎え討ったのが、壱岐守・藤原理忠(まさただ)だった。久保内橋の北東近くに軍場(いくさば)と呼ばれる丘があり、その一帯が古戦場とされる。しかし、理忠は武運つたなく、討死。軍場には、「藤原理忠精忠碑」という顕彰碑が立てられている。

刀伊の入寇によって、壱岐は甚大なる被害を出したが、壱岐市立一支国(いきこく)博物館の館長・須藤資隆さんにうかがうと、囚われの身となっても、気概を見せた人々もいたという。

「刀伊は壱岐を攻めた後、博多警固所で日本軍と戦っていますが、『小右記』によると、捕虜となっていた壱岐の人が、日本の兵に『馬を走らせて矢を射よ、臆病になるな』と激励しているのです」

なお、この時、大宰府の最高責任者として迎撃の指揮を執ったのが、道長の甥・藤原隆家である。

壱岐市立一支国博物館
↑壱岐市立一支国博物館の館内展示

ところで、一支国博物館は、古代史に関する展示が大変充実している。須藤さんはこう語る。

「博物館近くにある原の辻遺跡は、日本三大弥生遺跡のひとつです。朝鮮半島や中国大陸との交流の拠点として、当時、最先端の都市でした」

そして時がたち、刀伊の入寇を経て、鎌倉時代になると島の位置づけも変わる。

「鎌倉幕府にとっては、敵情把握のための、レーダーのような島といえるかもしれませんね」

壱岐は、対外危機に対応するための性格を持ったのだ。

ちなみに壱岐には、昭和初期に建造された、黒崎砲台跡もある。東洋一の射程距離を誇った砲台だ。

古代の遺跡、刀伊の入寇と元寇のゆかりの地、昭和の砲台......。そうした古代から現代にかけての史跡をみると、壱岐は、文化的にも、軍事的にも極めて重要な土地といえるだろう。

辻遺跡
↑原の辻遺跡

黒崎砲台
↑黒崎砲台

 

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