写真:竹田城跡(提供:朝来市)
兵庫県朝来市にある竹田城跡は、「天空の城」として有名だが、実は、大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主人公・豊臣秀長が居城としたこともある名城だ。しかも市内には、豊臣兄弟の天下一統を語るうえで欠かせない生野銀山もある。
2つの地はいったい何を物語るのか。編集部が訪ね歩くと、圧巻の光景とともに、世界につながる歴史が見えてきた。
竹田城跡は雲海に浮かぶ「天空の城」として、広く知られてきた。しかし今年は、それにもうひとつのキャッチフレーズが加わった。
「豊臣兄弟ゆかりの城」である。兄弟は中国攻めの最中でこの城を攻略し、特に秀長は、城代として城を預かる立場となっているのだ。
そこで、豊臣兄弟との関係を調べると、より一層、竹田城跡の魅力に触れられるのではないかと思い立ち、現地へと向かった。
まずは、竹田城跡を遠望できる立雲峡へ。立雲峡の展望台は、24時間入場可能とのことで、早朝に車で向かった。朝来市の中心市街・和田山駅からは20分ほどだ。
雲海が出るのは主に秋のため、この日は見られなかったが、それでも展望台からは竹田城跡の石垣を肉眼ではっきりと見ることができ、十分に目を楽しませてくれた。
ここで、ひとつの想念が浮かんできた。豊臣兄弟は竹田城を攻めたが、事前にどんな城か調べるはずだ。とすると、2人もこうした高所から竹田城を眺めて、攻め方を思案したのではないか……。
そんなことを思いつつ、次は竹田城跡へと向かう。
写真:中世城郭時代の竪堀
竹田城跡は、季節によって観覧時間が変わるので、訪問時は事前に調べておいたほうがいいだろう。また、山道は4つあり、今回は一般的な西登山道で城跡を目指した。
山の麓にある山城の郷駐車場に車をとめ、そこから西登山道を歩けば、城跡入り口までは40分。
JR竹田駅からは、駅と竹田城跡を周遊する天空バス、またはタクシーを利用することもできる。
さて、西登山道を進むに際しては、朝来市観光交流課の荒木義嗣さんと、文化財課の大川拓也さんが案内してくださることに。
西登山道の中腹に、施設係員用の駐車場と公衆手洗いがあり、そこから進んだすぐ左手を大川さんが指をさし、「ここは、近世城郭になる前の、中世城郭時代の竪堀なんですよ」と教えてくれる。
横幅数メートルで、山上に延びる堀は、間違いなく竪堀とわかる。総石垣となる前の竹田城は、土塁からなる中世城郭だったそうだ。
ここで、竹田城の歴史に触れておきたい。竹田城は、永享3年(1431)に山名持豊が築城に着手し、嘉吉3年(1443)に完成。太田垣光景が初代城主となった。
その後、太田垣輝延の時代の天正5年(1577)、信長家臣だった秀長が攻略し、城代となる。
秀長が石垣造りの普請を命じられたというが、実際に総石垣の城となったのは、最後の城主・赤松広秀の時代と考えられている。
西登山道を進んでいくと、徐々に視界の上に石垣が見えてきて、その威容が姿を現わす。
城跡を近くで目にすると、石垣造りの曲輪が幾重にも連なるようにして見え、その光景は圧巻だ。
「竹田城は、天守台を中心に、北に北千畳、南に南千畳、西に花屋敷と、三方向に曲輪を配した縄張りとなっていて、堅固だったことでしょう」と大川さん。
北千畳から三の丸に入る際に、虎口櫓があるが、その石垣を見ると、大小、様々な石材が使われていることがわかる。
野面積みという手法で、安土城を築いた穴太衆によるものと似ているが、竹田城と彼らの関係はわかっていないという。
写真:虎口櫓の石垣
三の丸、二の丸を経ていよいよ天守台へとのぼる。かつては三層の天守があったと考えられているそうだ。
写真:南千畳から天守台を望む
竹田城跡は標高約350メートル、比高200メートルで、天守台から景色を眺めると、この地がいかに要衝であったかが手にとるようにわかる。
大川さんは、こう語る。
「ここからは三方向に街道が見えますが、山陽と山陰を結ぶ要地で、竹田城を押さえた織田方にとっては、対毛利と生野銀山を守るための拠点でした」
続いて、南千畳に歩みを進めるが、歩いているうちに、竹田城跡全体の広大さに驚かされる。
南北400メートル、東西100メートルの規模に及び、しかもすべてが石垣造りであることから、まさに名城といっていいだろう。
しかも、立つ位置によって、それぞれ異なる光景を見せてくれ、お城ファンならずとも、間違いなく惹かれるはずだ。
「この竹田城跡で、雲海の中を歩くのもまた格別ですよ」と荒木さん。
雲海がなくともこれだけ美しいのだから、雲海の季節も見てみたいものだ。
写真:南千畳方面の眺め
なお、山城の郷駐車場から車で10分ほどの位置にある朝来市埋蔵文化財センター古代あさご館では、「羽柴秀長と竹田城」と題した企画展が開かれている。2026年7月20日まで開催中の前期展示では、織田軍の但馬侵攻と但馬国について、2026年8月4日から2026年11月29日までの後期展示では、竹田城を中心に朝来市内の山城が紹介されるとのことで、そちらにも足を延ばすといいだろう。
写真:旧宿場町の雰囲気を残す旧木村酒造場
竹田城跡を後にして、次は城跡の麓にある、JR竹田駅周辺の旧城下町へと向かう。山城の郷駐車場から駅までは車で10分ほど。駅近くには駐車場もある。
関ケ原合戦のおり、竹田城主・赤松広秀は西軍に与したことから、徳川家康の命によって切腹。その後、城は廃城となったものの、町は宿場町として栄え続けたという。
特に駅の東側の通りは、旧宿場町の雰囲気が濃厚で、どこか懐かしい気分にさせてくれる。
駅を挟んで反対側には、寺院の並ぶ寺町通りがある。
善證寺、常光寺、勝賢寺、法樹寺と白壁のあるお寺が四つ隣接し、その手前には鯉の泳ぐ小川が流れ、桜の木も続く光景は、映画のワンシーンにしたい雰囲気だ。
写真:寺町通り
また面白いのは、この4つの寺院が、いずれも竹田城とゆかりがあることだ。
善證寺は再建時に、竹田城の廃材と旧赤松家臣平位善右衛門の邸宅が使われたという。
常光寺には初代城主・太田垣光景の供養塔、勝賢寺には九代城主・桑山重晴の長男夫妻の墓、法樹寺には赤松広秀の供養塔と、それぞれ旧城主やゆかりの人物の慰霊施設があるのだ。
写真:桑山重晴の長男夫妻の墓
写真:太田垣光景の供養塔
法樹寺で広秀の供養塔に手を合わせて、その背後に目を向けると、石垣のようなものが並んでいる。
「ここは赤松広秀公の居館跡と考えられているんです」と荒木さん。
「広秀公は養蚕業や漆器産業を奨励し、それが、竹田の名物でもある家具製造業のもとになったと伝えられています」
荒木さんの口ぶりから、赤松広秀がこの地の人々に、いまも慕われていることがうかがえた。
写真:赤松広秀の供養塔
写真:生野銀山の公開されている坑道
竹田城跡と旧城下町を後にし、次は生野銀山へと向かう。
竹田駅周辺からは車で30分ほど。電車の場合は竹田駅から生野駅まで30分、そこからタクシーまたは予約制のデマンド型乗合交通でいくこととなる。
生野銀山には、鉱山資料館、生野銀山文化ミュージアムといった展示施設があり、実際に使われていた坑道内を歩くこともできる。
ここからは、生野銀山を運営する株式会社シルバー生野の取締役社長・髙山孝一さんが案内してくださることに。
まず、生野銀山の歴史に簡単に触れておこう。この銀山が開坑されたのは、伝承では大同2年(807)とされる。
そして、銀山としての開発が本格化するのは戦国時代のことで、但馬守護・山名祐豊のもとで進められたと考えられる。
その後、竹田城主・太田垣氏が銀山を押さえ、続いて織田信長が豊臣兄弟を派遣して掌握。信長亡き後は、秀吉が直轄化し、関ケ原の戦い後は、徳川家康が銀山奉行を置いて管理した。
「信長、秀吉、家康という三英傑がかかわった銀山は、ここだけでしょうね」と髙山さん。
特に豊臣政権期には、全国から集められた銀のおよそ8割が、生野を主体とする但馬国の銀山から産出されており、政権の財源になると同時に、海外交易の原動力になったと考えられる。
歴史学者の磯田道史氏は著書『豊臣兄弟 天下を獲った処世術』でこう記している。
「生野銀山を押さえることで、秀吉は天下を狙うことが可能になった、といっても過言ではありません」
戦国時代において、この地がいかに重要だったかがうかがえる。
それと同時に、ここで産出された銀が世界に輸出されていた事実を踏まえると、竹田城と生野銀山が世界史と無関係ではないことに気づかされる。
では、実際に銀はどのようにして採掘されていたのだろうか。
「銀山というと、坑道の中で採掘するイメージがあるでしょうが、戦国時代は主に、露頭掘りといって、鉱脈が地表に出ている部分を掘っていたんです」
そういって髙山さんが案内してくれたのが、坑道外コースにある慶寿の掘切だ。明らかに人の手によって掘られたことがわかる。
「ただ当時の技術では、1日掘っても10センチほどしか進まなかったでしょうね」
銀の採掘とは途方もなく、大変な仕事なのだろう。
写真:戦国時代に掘られた慶寿の掘切
生野銀山では露頭掘りだけでなく、坑道も約1キロメートルが一般公開されており、そこでは、江戸時代の坑道や明治時代以降の近現代の坑道を見ることができる。
髙山さんによると、江戸時代の坑道内では採掘する人だけでなく、排水をする人、坑内に空気を送る人もいたとのことで、やはり大変な仕事だったのだろう。
あとで、その様子を再現した模型を鉱山資料館で見せてもらったが、当時の苦労が一層、偲ばれた。
写真:江戸時代の採掘風景を再現した模型
写真:江戸時代に掘られた坑道
一方で、坑道ではエレベーターや巻上機など、近代的な設備を目にすることもできる。
そこからは江戸時代から戦後までの鉱山開発の過程も見え、この地で採掘に携わってきた人々の息遣いが伝わってくるようだった。
写真:エレベーターを動かすための巻上機
「大正、昭和の最盛期には、生野の人口は1万人を超え、大変賑わい、文化的にも進んだ地域だったんですよ」と髙山さん。
紙幅の都合で触れられないが、生野駅周辺では、そうした時代の名残を感じさせてくれる建築物や施設もあるので、生野銀山と一緒に、それらも見学するといいだろう。
なお、生野銀山は昭和48年(1973)に閉山となったが、いまもこうして、その歴史を今に伝えてくれている。
豊臣兄弟とゆかりある竹田城跡と生野銀山を訪ねる旅は、思わぬ広がりを見せ、戦国時代だけでなく、世界史と現代につながる歴史にも出会わせてくれたのだった。
竹田城跡と生野銀山へのアクセスは、「朝来市観光協会」で検索するか、もしくは下記からアクセスしてください。

更新:05月16日 00:05