歴史街道 » WEB情報箱 » 中岡慎太郎の意外な素顔を求めて 幕末土佐の胎動を感じる地・高知県北川村

中岡慎太郎の意外な素顔を求めて 幕末土佐の胎動を感じる地・高知県北川村

歴史街道編集部

中岡慎太郎(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
写真:中岡慎太郎(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

幕末の土佐は、高い志をもち、日本のために奔走した志士を多く輩出した。その一人である中岡慎太郎の故郷・北川村を編集部が訪ねると、彼を生み出した風土と、彼が故郷に残した知られざる"もの"が見えてくるのだった。

 

生誕の地で思いを馳せる

中岡慎太郎館
写真:中岡慎太郎館

幕末、坂本龍馬の盟友で、新たな国づくりに奔走した中岡慎太郎。

慎太郎が生まれ育った地では、彼の意外な素顔に触れられると聞き、高知県安芸郡北川村へと向かった。

最初に足を運んだのは、奈半利(なはり)駅よりバスで15分ほどの中岡慎太郎館。

館内1階では、慎太郎の生涯を、豊富な映像やパネルで追うことができる。30年の人生がドラマチックに再現されており、まるで慎太郎の姿を隣で見ているような気分になれる。

2階には、慎太郎や、ゆかりの人々の資料が展示されている。慎太郎の茶碗などの遺品類も見ることができ、慎太郎のことをより身近に感じられる。

中岡慎太郎館1階の展示。映像やパネルとともに 慎太郎の生涯に触れられる
写真:中岡慎太郎館1階の展示。映像やパネルとともに慎太郎の生涯に触れられる

 

慎太郎の生涯

中岡慎太郎館目の前の中岡慎太郎像
写真:中岡慎太郎館目の前の中岡慎太郎像

中岡慎太郎館の展示を見ていると、改めて、慎太郎が激動の時代を全力で駆け抜けたことを実感する。しかし、そもそも庄屋の家に生まれた彼が、藩を飛び出し、国事に奔走するようになったのはなぜなのだろうか。

中岡慎太郎館学芸員の豊田満広さんにお話をうかがった。

「慎太郎は、北川郷柏木の大庄屋の長男として天保9年(1838)に生まれました。

中岡家待望の男児だったこともあり、父親が慎太郎に自ら読み書きを教えるなど、両親の愛情と熱意が注がれました。そこには将来、庄屋を継ぎ、村を支える人物となってほしいという願いもあったことでしょう」

この頃、日本各所に外国船が頻繁に姿を現わすようになり、嘉永6年(1853)には浦賀にペリーが来航。時代が大きく動き出す。

ペリー来航の翌年、土佐藩では、藩校である田野学館(たのがっかん)が設けられ、慎太郎も入学している。

「田野学館では、土佐勤王党の盟主・武市半平太とも出会っています。ここでの学びや人々との新たな出会いが、慎太郎の視野を大きく広げたのではないでしょうか」

半平太の人柄に惹かれた慎太郎は、24歳の時に土佐勤王党に加盟し、その後、脱藩。薩長連合の実現や倒幕のための公家同士の協力体制を築こうと、東奔西走していく――。

しかし慶応3年(1867)11月15日、京都近江屋で、慎太郎は坂本龍馬とともに襲撃に遭って重傷を負い、その2日後に世を去る。

この歩みから、その生涯は国事に捧げられたようにも思える。だが実は、慎太郎は北川村にも、ある"もの"を残したという。

「父の病気をうけ、慎太郎は20歳で北川郷大庄屋見習いとなり、農民たちのために奮闘します。農民がお金に困らないよう、林業を奨励したことが資料に残されているのです。

この地域は、水が豊かで、温暖な気候に恵まれており、古くから良質な木々が育つ環境にありました。慎太郎も林業によって村を発展させようとしたのでしょう。彼は、伐採のあとには必ず植林をするよう呼び掛けていたようです。

そしてもう一つ、慎太郎にまつわる伝承として残っているのが、ゆず栽培を奨励したことです」

中岡慎太郎とゆず――意外な組み合わせのようにも思えるが、確かに北川村を訪ねた道中、多くのゆず畑を目にした。

「村には昔からゆずが自生していました。北川村の気候は、ゆずの栽培にも適しており、慎太郎は、ゆずが村の収入源となると考えたのでしょう。この話は昔から村の人々には広く知られた話で、今もなお語り継がれています」

北川村のゆず
写真:北川村のゆず

豊田さんから慎太郎とゆずの関係を聞いたことで、ゆず料理が食べたくなってきた――。

中岡慎太郎館の目の前にある慎太郎食堂では、ゆずをはじめ北川村の食材をつかった料理が味わえるとのことで、舌鼓をうつ。特に手作りのゆずジュースは酸味と甘みのバランスが絶妙だ。

慎太郎食堂の「北川ランチセット」と北川村の手作りゆずジュース
写真:慎太郎食堂の「北川ランチセット」と北川村の手作りゆずジュース

次に向かったのは、中岡慎太郎館から徒歩2分の中岡慎太郎生家。

慎太郎の死後、生家は売られ、その後、隣町に移築され、明治40年(1907)の台風で流出した。現在の建物は、関係者の証言や、郷土史家の考証にもとづき、昭和42年(1967)に忠実に復元されたものだ。

開放的な室内に、ありし日の慎太郎の暮らしが思い浮かぶ。

中岡慎太郎生家
写真:中岡慎太郎生家

続いて足を運んだのは、幼少期に慎太郎が読み書きを習いに通っていた松林寺。こちらも、中岡慎太郎館から歩いてすぐ。12世紀末に建てられ、現在は寺門が残るのみだが、幼き日の慎太郎もこの門をくぐったにちがいない。

寺門をくぐって奥へと進むと、慎太郎の遺髪を埋葬した慎太郎遺髪墓地がある。国のために、そして北川村のために奔走した慎太郎の生涯に、しばし思いを馳せる。

松林寺寺門
写真:松林寺寺門

写真右から2番目が慎太郎遺髪墓地。左隣は妻・兼の墓
写真:右から2番目が慎太郎遺髪墓地。左隣は妻・兼の墓

 

高知市で足跡に触れる

高知県立坂本龍馬記念館の展示室。
写真:高知県立坂本龍馬記念館の展示室

高知県での歴史散歩というと、高知県立坂本龍馬記念館を思い浮かべる方も多いだろう。

実は坂本龍馬記念館にも、慎太郎をはじめ、幕末の志士ゆかりの展示がされているという。北川村を後にし、高知駅からバスで約35分、坂本龍馬記念館へと向かった。

坂本龍馬記念館では、慎太郎の盟友である龍馬の生涯を、映像、パネル、貴重資料などから追うことができる。

常設展示室には、慎太郎が親友にあてて書いた手紙の複製も展示されており、文面から誠実な人柄がうかがえる。スマートフォンで音声ガイドを聞きながら展示を見ることもでき、より一層、展示品から多くのことが伝わってくる。

坂本龍馬記念館の竹田綾さんによると、龍馬の真筆書簡は常時2点ずつ展示され、2ケ月おきに展示替えがあるとのこと。行くたびに、どんな真筆が見られるのだろうかと、胸が弾みそうだ。

本館地下2階には、龍馬と同じ時代を生きた約130人の写真が並ぶ「幕末写真館」のコーナーもあり、慎太郎の姿も目にできる。

体験型の展示も多くあるので、大人はもちろん、歴史を学び始めた子供も楽しめるだろう。

坂本龍馬記念館の「幕末写真館」のコーナー
写真:坂本龍馬記念館の「幕末写真館」のコーナー

坂本龍馬記念館の近江屋を再現したコーナー
写真:坂本龍馬記念館の近江屋を再現したコーナー

次に訪ねたのは、桂浜の坂本龍馬像。坂本龍馬記念館からは徒歩10分ほどだ。

龍馬像は、台座を含めると13.5メートルもある。通常は下から眺めるものだが、訪問した11月はちょうど、期間限定で龍馬像の横に約13メートルの特設展望台が設置されており、龍馬像を真横で見ることができた。

龍馬の精悍な顔立ちを間近で見られるだけでも感激だが、龍馬像と同じ目線で桂浜を望むことができ、広大な太平洋に志士たちの思いを重ね、胸が熱くなった。

特設展望台は、春と秋に設置されるそうなので、高知県の観光サイトを調べてから訪ねるといいだろう。

特設展望台から見た坂本龍馬像
写真:特設展望台から見た坂本龍馬像

最後に向かったのは、高知駅から徒歩約25分の高知城。

日本で唯一、本丸の建築群が全て現存しており、江戸時代の姿を今に伝える極めて貴重な城郭だ。

天守からの眺めは絶景だが、幕末、土佐勤王党と複雑な関係にあった藩主・山内容堂は、この景色の中で何を思ったのだろうか。

高知城はたくさんの観光客でにぎわっているが、日本人はもちろん、外国の方の姿も多い。

幕末、慎太郎をはじめ、新たな国づくりを目指した志士たちを輩出した土佐の地は、150年以上の時を経た今、世界中の人々を魅了する地になっている――感慨深い思いを抱きながら、旅を終えたのだった。

 

コラム・慎太郎の志は受け継がれた! 森林鉄道からゆずロードへ

堀ケ生橋
写真:堀ケ生橋

幕末、中岡慎太郎が北川村で奨励した林業とゆず栽培。その息吹は彼亡き後、現代まで続いていた――。

高知県東部の中芸地域(北川村を含む五町村)は林業が盛んで、明治に入って山林が国有化されると、伐採木の運搬のため、魚梁瀬(やなせ)森林鉄道が敷かれた。

明治44年(1911)にトロッコ(トロリー)運搬が開始されると、その軌道は昭和17年(1942)にかけて続々と延伸され、やがて西日本最大級の森林鉄道となる。もとは木を運ぶのが目的だったが、唯一の交通機関として、住民の大切な足になった。

繁栄を誇った森林鉄道だが、昭和38年(1963)、水力発電用のダム建設に伴い、幕を下ろすこととなる。

その後、中芸地域では林業が衰えをみせるなかで、それに代わる新たな産業として、気候を生かしたゆず栽培に力が注がれるようになる。

そして現在、森林鉄道の軌道は、ゆず畑の風景が広がる「ゆずロード」へと生まれ変わっている。

実はこの森林鉄道跡、今でも道路として使用されている部分もあり、実際に通行したり、見学することができる。

今回は「日本遺産中芸ゆずと森林鉄道ガイド会」の清岡荘司さんと岩佐戸津さんの案内のもと、車で移動しながら、北川村にある3つの橋梁をめぐった。

まず、昭和16年(1941)に建造された堀ケ生(ほりがを)橋。川べりから橋を見上げてみると、その大きさに驚く。

次に向かったのは、昭和15年(1940)に造られた二股(ふたまた)橋。二連アーチの趣ある形状が、自然豊かな景観とマッチしていて旅情を掻き立てる。

 二股橋
写真:二股橋

最後に訪ねた小島(こしま)橋は昭和7年(1932)の建造で、赤色が印象的だ。橋長は約143メートルもあり、当時、これほどの長さの橋を築いた人々の想いが偲ばれる。また、橋を抜けた先には広大なゆず畑が広がっていて美しい。

小島橋
写真:小島橋

これらの橋梁は、文化庁が認定する日本遺産の構成文化財である。この3つの橋以外にも、中芸地域には多数の文化遺産があり、「日本遺産中芸ゆずと森林鉄道ガイド会」の案内とともに回ることができる。ぜひ、体感してみてはいかがだろうか。

【ガイドに関するお問い合わせ先】

日本遺産中芸ゆずと森林鉄道ガイド会(電話︰0887-30-1865)

中岡慎太郎館周辺マップ

歴史街道の詳細情報

関連記事

編集部のおすすめ

坂本龍馬は「大事業のコーディネーター」だったと言える理由

半藤一利(作家)

高知の博物館、記念館が熱い!

『歴史街道』編集部

高知城が「日本唯一の城」である理由

『歴史街道』編集部