
大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、豊臣秀吉と秀長兄弟の活躍が描かれているが、戦国時代のほかの兄弟をみると、固い絆で結ばれる者たちもいれば、いがみ合い、埋めがたい溝を抱える者たちもいた。力の優劣が命運を左右する戦国時代において、武将たちが見せた「兄弟のかたち」とはどのようなものだったのか。内訌によって兄弟が争うこととなった斎藤義龍と伊達政宗の例を、作家の橋場日月氏が解説する。
※本稿は、『歴史街道』2022年6月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。
弘治2年(1556)4月20日、「美濃の蝮」の異名で知られる斎藤道三が長良川畔に陣を敷いた。それは、頭上の稲葉山城主・斎藤義龍に戦いを挑むためだ。義龍は道三の息子。ふたりはなぜ対決しなければならなくなったのだろうか。
天文23年(1554)に義龍へ美濃斎藤家の家督を譲っていた道三だが、その後は義龍を「耄者(ほれもの)」(呆け者)と罵倒していた。反道三派が義龍を支持し、道三はそれに押し切られる形で義龍を斎藤家当主にしたのだろう。これに対抗するように道三が期待したのが、三男の龍定だった。
道三は、この龍定に一色氏を名乗らせている。
一色氏は足利氏に連なる名門で、かつての美濃守護・土岐氏よりも上位。道三は龍定に義龍を上回る権威をまとわせ、実権をふたたび奪還しようと考えたのだ。
これで龍定が慎重な性格だったら良かったのだが、彼とその兄・龍重(道三の次男、義龍のすぐ下の弟)の二人は「勝ちに乗って驕り、(義龍を)蔑如(べつじょ)に持て扱い」と、義龍をないがしろにする振る舞いを示したという。これではことが穏やかに収まる筈も無い。
ある日、義龍は龍定と龍重を城内下屋敷の居所に呼び寄せる。ひと月以上前から仮病を使って引き籠もっていた彼は、「もう長くは無い」として、遺言をしたいと弟たちに伝えさせたのだ。
控えの間に刀を置いたふたりは、奥の間に入ると義龍重臣・日根野弘就によって斬殺されたという。
これを知った道三は「仰天を致し、肝を消すこと限りなし」という有り様で、ようやく立ち直ると、息子との合戦を決意したのだ。
集まった兵は義龍勢が1万7500以上、道三勢は2700余り。「国中に領地ある者は、皆新九郎義龍方へ馳せ集まる」という状態だったのは、亡き龍定に人望が無かったことも影響していたのだろう。
「長良川の戦い」は義龍の圧勝に終わり、道三は首を打たれ、鼻を削がれて戦場の露と消えた。兄を見くびり、おのれの力を過信した弟は、父をも道連れにしたということになる。
ちなみに、この三兄弟と同じく、道三の子として帰蝶(濃姫)がいる。永禄10年(1567)に彼女の夫の織田信長が義龍の子・龍興を攻めて稲葉山城を奪い、美濃を併合した。その際、信長が義龍の未亡人所有の茶壺を取りあげようとしつこく催促すると「紛失して差し上げられない。なおも要求するなら自害します」と義龍の未亡人に抗議された。
帰蝶はこのとき、彼女に味方して「自分たち兄弟姉妹16人も自害する」などと信長にねじ込んだという。これを信じる限り、帰蝶としては父と、実の兄弟である龍重・龍定とを殺した兄・義龍を恨んではいなかったようだ。
「独眼竜」伊達政宗と、その弟・小次郎政道は同じ最上氏・義姫の子で、年子とされている。
天正18年(1590)、豊臣秀吉が関東へ兵を進めた折、伊達家内部は恭順と抵抗のどちらを取るかで紛糾していた。「奥羽の鬼姫」とあだ名される義姫は、秀吉の「私戦停止命令」を無視して会津の蘆名氏を滅ぼしてしまった政宗を秀吉は許さず、伊達家は改易されてしまうだろうと判断して、小次郎擁立を考えた。そして、秀吉に恭順するため小田原に赴こうとする政宗を毒入りの食事でもてなしたのだった(異説あり)。
政宗は毒を盛られたことに気付き、手早く解毒剤を飲んだために軽症で済んだ。翌日、小次郎は騒動の張本として誅殺されて、義姫は実家の山形城に遁れた、と伝えられている。
しかし、史実では義姫の出奔は4年後のことだ。政宗は家中内紛の原因として、秀吉につけこまれかねない小次郎という不安定要素を事前に処分し、その大義名分として「毒殺未遂事件」そのものを捏造したのではないだろうか。
もうひとつ言えば、小次郎がその後も生き延びていたとの説もある。その根拠とされるのは、東京都あきる野市内の大悲願寺に保管されている元和9年(1623)のものという政宗の書状だ。
それは、寺を訪れた際に見た庭の白萩が「一段見事」だったので分けて欲しい、という内容だ。親しげな調子で政宗が手紙を書いたあて先の同寺住職・秀雄は、「政宗の末弟」と同寺の「金色山過去帳」に記されており、この秀雄が小次郎だといわれているのだ。
これが本当だとすると、小次郎は殺害を装い、ひそかに武蔵国(現在の東京都、埼玉県、神奈川県の一部)へ逃がされたということになる。
それならば伊達家当主の座をめぐる兄弟の憎悪という暗い面は完全に消え、政宗は愛する弟を殺さず、かつ家中の統制を守る素晴らしい方法を考案し、実行したということになるだろう。そうあって欲しいものだ。
更新:02月04日 00:05