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フランスはゲルマン系? 教養として知っておきたい「フランク王国の歴史」

2025年10月30日 公開

宇山卓栄(​​​​​​​著述家)

5世紀の終わり、西ヨーロッパで誕生した「フランク王国」は、現在のフランス、ドイツ、イタリアの三国となっていく──。世界史の授業でそう習ったかもしれないが、その実像を知らない人も多いだろう。パリ五輪が終わったところで、改めて「フランク王国」の歩みを見ていこう。

 

そのはじまりと「フランク」の意味

オリンピック競技大会が2024年7月26日から8月11日まで、パリで開催されましたが、フランスらしい開会式は賛否両論ありながらも、注目を集めました。

我々日本人にとって、「フランス」という言葉は「優雅さ」の代名詞のように響きますが、実は、この言葉の本来の語義は「優雅さ」とはかけ離れたものです。「フランス」は「荒々しい」という意味のラテン語に由来し、蛮族の「野蛮さ」を指し示す言葉でした。

4世紀末、ドイツ方面にいたゲルマン人部族がライン川を西へ渡り、北フランスのロワール川からセーヌ川にいたる地域に定住しました。ローマ人はこの部族を「粗野な人々」という意味で、「フランク人」と呼びました。フランク人は元々、一つのまとまった部族ではなく、複数のゲルマン人部族の連合体で、それらをまとめて、ローマ人が「フランク人」と呼んでいたのです。

「フランス」は「フランク」が変化したものです。フランク人は他のゲルマン諸部族を併合し、強大化していきます。5世紀の終わりから6世紀初めには、フランク人の王クローヴィスが現在のフランスの領域ほぼ全てを征服し、フランク王国を形成しました。

ラテン語の「フランク(Franci)」が「フランス(France)」という表記や発音に変わったのは9世紀以降と見られていますが、正式な年代や変わった理由について、詳細がわかっていません。

このフランク人が、今日のフランス人の直接の祖先です。フランク人は元々、ゲルマン人部族の連合であったので、フランス人は民族的にゲルマン系(ドイツ系)です。したがって、民族上、フランス人とドイツ人を区別することはできず、同系の民族と見なされます。

しかし、フランス人は言語学の観点からは、ゲルマン語派とは異なるラテン語派に分類されます。これは、かつてフランク人が、ローマの言語であるラテン語を早期に取り入れたためです。またフランク王国の初代国王クローヴィスが、カトリックを受容してローマ教会と連携(クローヴィスのカトリック改宗)したことで、従来のゲルマン文化が急速にラテン化されていきます。

つまり、フランス人は民族の上ではゲルマン系、言語や文化の上ではラテン系という、二重性を持つのです。

 

ヨーロッパの盟主となるまで 

クローヴィス以来、フランク王国はその勢力を強大化していきますが、8世紀のはじめに、危機が訪れます。アフリカ大陸からイスラム勢力がジブラルタル海峡を越えて、イベリア半島に侵入してきたのです。

イスラム勢力はさらに、東へと進んで、ピレネー山脈を越え、フランク王国の領土に侵入します。そして、732年、有名なトゥール・ポワティエ間の戦いが起こりました。この戦いでは、宮宰カール・マルテルの活躍で、フランク軍はイスラム軍を撃ち破り、イスラム軍はイベリア半島に撤退します。

ヨーロッパを防衛することに成功したフランク人は、事実上の西ヨーロッパの盟主となりました。

ローマ帝国は395年に東西に分裂した後、476年、西ローマ帝国が早くも崩壊し、西ローマ皇帝位は廃位されます。しかし、キリスト教の指導者である教皇位は残り、旧西ローマ帝国内の最高指導者となりました。ただ、最高指導者と言っても軍隊はなく、実質的な力はなかったため、教皇は自分に従う世俗勢力を取り込み、影響力を確保しなければならず、フランク人勢力と結託していきます。

一方、フランク人には強大な組織力と軍隊がありましたが、権威がありませんので、教皇にすり寄り、その権威を利用することで、部族を束ねる正当性を獲得することができました。

両者は互いに無いものを補完し合いながら、癒着関係を深めていき、800年に教皇レオ三世は、フランク人の王カールに皇帝の位を授けるのです。

しかし、いかに実力があろうとも、元々、西ローマ帝国がゲルマン人に滅亡させられた過去もあり、ゲルマン系のフランク人がローマ皇帝になることに、政治的な正統性はもちろん、人々の共通の許容認識はありませんでした。

そのため、皇帝位の授与の準備は極秘で進められ、サン・ピエトロ大聖堂での戴冠式を奇襲作戦の如く、一気に終わらせたので、カール本人が戴冠されることを知らなかったという説もあるほどです。

 

フランス、ドイツ、イタリアの誕生

しかし、カール一世(大帝)の築いた帝国は、彼の死後、早くも西フランク王国、東フランク王国、中部フランク王国の三国に分断されます。さらに、870年のメルセン条約を経て、国境線が画定され、フランス、ドイツ、イタリアの原形が誕生しました。

このように、中央ヨーロッパの三国は元を辿れば、フランク王国に行き着きます。三国の国王たちは皆、カール大帝の子孫なのです。カール大帝はカロリング家という王家の出身なので、三国の王室はカロリング朝としてはじまります。

因みに「カロリング」は姓ではなく、「カールの」という意味です。カロリング家の勃興を決定付けたカール・マルテルに由来します。

ゲルマン人は中世の初期まで、姓を持っていませんでした。一方、ローマなどのラテン人には姓がありました。たとえば、カエサルは「ガイウス(名)・ユリウス(氏族姓)・カエサル(家族姓)」です。

そして三国の中でも、「フランク」の名を誇りに感じ、継承していったのが西フランク王国、つまり、フランス人の勢力です。フランク人の勢力基盤は主にフランスにあったため、彼らはドイツのフランク人やイタリアのフランク人よりも、自らをフランク人と強く意識し、「フランク」の名を国号に残したのです。

一方、イタリアのフランク人は、ラテン系イタリア人に比べて圧倒的少数に過ぎず、その支配も短命に終わりました。その後、イタリアでは、イタリア人によって形成された都市国家や領邦国家が、各地に分立していきます。

ドイツのフランク人は、当時乱立していたゲルマン諸部族をまとめますが、それらの部族のうちの一つであるザクセン人が次第に力を持ち、フランク人に代わって、ザクセン朝を開き、東フランク王国を支配します。

フランク人はクローヴィスの時代以来、ラテン語を取り入れ、ラテン化されていましたが、ザクセン人はほとんどラテン語を取り入れず、ゲルマン語(ドイツ語)を使っていました。そのため、東フランク王国(ドイツ)の領域は西フランク王国(フランス)の領域と異なり、ラテン化されなかったのです。

 

フランク的正統性を巡る争い

当初、西フランク王国も東フランク王国も、自分たちこそがフランク人のカール大帝の正統な継承者であるとして、王は「フランク人の王」を自任していました。そして、東西の王は互いに相手を「フランク人の王」と認めず、西は東を「ゲルマン人の王」と呼び、東は西を「ガリア人の王」と呼び、侮蔑していました。

しかし、東フランク王国で、カール大帝の王統であったカロリング家が断絶。919年、フランク人の血統を引かないザクセン人のハインリヒ一世が即位すると、東は「フランク人の王」としての正統性を失います。

反対に、西フランク王国のフランク的正統性が一層、強調されるようになり、前述の通り、「フランク」の名が国号に冠せられることになります。しかし、西フランクの王がフランク人の血統を本当に引いていたかは疑わしいと言わざるを得ません。

9世紀末、西では、王位がカロリング家によって世襲されなくなり、有力諸侯のロベール家が断続的に王位を継承します。ロベール家はパリに侵攻してきたノルマン人を撃退し、功績を上げていました。ロベール家は現在のベルギーから西ドイツ(ヴォルムス)を本拠としていた諸侯ですが、フランク人としての集団に属していたかどうかは不明です(非フランク人であったとする見方が有力)。

この出自のよくわからないロベール家から三人の王が輩出されます。最終的に、987年、このロベール家のユーグ・カペーがカペー朝を創始し、カロリング朝は終結。以後、フランスでは、カペー朝→ヴァロワ朝→ブルボン朝→オルレアン朝と19世紀に至るまで、ユーグ・カペーの血脈を引く男系男子の王が歴代、王位を継承します。

つまり、自らを正統フランクと強調しているのとは裏腹に、フランス王家は出自不明のロベール家からはじまっており、「フランス」という名にふさわしい継承者であるかどうかはわからないのです。

しかし、フランスの一般民衆には、北フランスを中心にフランク人の血脈を引く者が多くいたため、王室の血統はともかくとして、「フランス」と名乗ることは間違ったことではありません。

 

カロリング家の血統

分断された三国のうち、イタリア王国は早くも875年に崩壊し、教皇領や領邦など各地方勢力に分裂します。イタリアの分裂状態は19世紀まで続きます。

東フランク王国は三国の中で、王権が比較的強い方でした。911年、カロリング家は断絶しますが、女系のザクセン家が王位を引き継ぎます。オットー一世の時代に強勢を誇り、ヨーロッパに侵入していたアジア系のマジャール人を撃退するなどして、王権を強化。ローマ教皇との連携を強め、962年、教皇からローマ皇帝の冠を受けます。オットー一世は西ローマ帝国の再復活を託されました。

オットー一世の帝国は「神聖ローマ帝国」とも呼ばれます。しかし、この輝かしい名とは裏腹に、この帝国はドイツのみを支配したに過ぎず、カール大帝のように西ヨーロッパの全てを支配した帝国ではありません。神聖ローマ帝国と言いながらも、イタリア・ローマを支配しておらず、名前だけの「帝国」でした。オットー一世の死後、歴代神聖ローマ皇帝がローマを手に入れようと、イタリアに攻め込みましたが、いずれも失敗しています。

神聖ローマ皇帝の位はザクセン家、ザーリアー家、ホーエンシュタウフェン家などの女系の家系が引き継ぎ、15世紀にハプスブルク家が世襲するようになっていくのです。

 

【宇山卓栄】
著述家。昭和50年(1975)、大阪府生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業。代々木ゼミナール世界史科講師を務め、現在に至る。テレビ、ラジオ、雑誌など各メディアで、時事問題を歴史の視点でわかりやすく解説している。著書に『「民族」で読み解く世界史』『世界「民族」全史』『知らないとヤバい民主主義の歴史』などがある。

 

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