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西園寺家で読み解く『太平記』の時代 関東申次を務めた貴族の実像

2025年09月29日 公開

羽生飛鳥(作家)

太平記
写真:Waseda University Library

鎌倉末期から南北朝時代は、天皇や武士を中心に描かれることが多いが、より深く理解するためには、公家の視点も欠かせない。西園寺家――承久の乱以降、朝廷で重要な役割を担うようになった、この一族を軸に、『太平記』で描かれた時代を読み解いていくと......。

※本稿は、『歴史街道』2025年9月号より、内容を一部抜粋・編集したものです

 

2つの役割を担う

鎌倉時代、幕府と朝廷との交渉役である関東申次(かんとうもうしつぎ)を務めて権勢を誇った、西園寺家という貴族がいた。

西園寺家の起源は、藤原北家閑院流の庶流の1つだ。流祖公季(きんすえ)以来、名前に「公」、または「実」をつけるのが通例となっている。藤原氏の流れからすれば嫡流とはほど遠いため、さほど権勢はなかった。

変化が訪れるのは、公季の子孫、西園寺公経(きんつね)の代で起きた承久の乱(承久3年〈1221〉)だ。後鳥羽上皇の倒幕計画に端を発したこの戦いの際、公経は朝廷側に属していたが、源頼朝の姪を妻に迎え、外孫の藤原頼経は鎌倉幕府4代将軍という、親幕派の貴族だった。

親幕派とは、簡単に言えば「無理して朝廷が権力を取り戻すのではなく、鎌倉幕府と仲良く共存する形で朝廷を守り立てていこう」という、現実的な考えを持つ派閥だ。

公経はその代表格だったので、後鳥羽上皇の倒幕計画に反対して怒りを買い、御所の厩に幽閉されてしまった。だが、その前に倒幕の情報を自分の家司に託して鎌倉へ知らせた。

これが鎌倉幕府の勝利の一因ともなり、北条義時は、「我が子孫7代まで西園寺殿を憑み進らすべき由」と言い残し、西園寺家は北条家と代々同盟関係となる。

公経の嫡男実氏(さねうじ)が5代執権北条時頼から関東申次に任命されて、西園寺嫡流が世襲していくことになるのは、寛元4年(1246)だ。これは、幕府では執権政治が、朝廷では両統迭立と、『太平記』の時代に起こる、鎌倉幕府崩壊と南北朝成立へと繫がる伏線ができた時期でもある。

当時の西園寺家はそのような未来はつゆ知らず、関東申次として、幕府と朝廷の交渉役、両統迭立で2つに分かれた皇統の調停役という、2つの役割を担うことになる。

 

関東申次として

幕府との交渉役になることで武士と親しくなり、皇統の調停役として娘を入内させていったので、幕府の存在と、天皇の外戚という立場が、西園寺家の権力基盤となった。

西園寺家嫡流が世襲する関東申次の平時の重要な任務は、朝廷の皇位継承問題を鎌倉幕府へ打診する際の交渉役を務めることだった。非常時の重要な任務としては、元寇の時、幕府から元の国書を受け取り、朝廷の意思を聞いて再び幕府へ伝えている。

このように西園寺家は、鎌倉時代全体を通し、関東申次として、つまりは交渉役として、朝廷と幕府が円滑に物事を進めるための重要な役割を、地味だがしっかりとこなしていた。

だが、日本史の教科書ではその活躍を省略しているため、現在に至るまで、西園寺家の歴代関東申次らの知名度は無きに等しい。

そもそも、初代関東申次の西園寺公経からして知名度が低い。だが、彼を手軽に知る方法がある。百人一首の本を読めばよいのだ。実は、百人一首の歌人の一人である入道前太政大臣は、公経である。

もう1人、手軽に知る方法がある関東申次は、公経の曽孫の西園寺実兼(さねかね)だ。先述した元寇の時の関東申次を務めた彼は、鎌倉時代の宮廷女流日記文学『とはずがたり』に、作者の恋人の1人、「雪の曙」として登場する。

ところで、この実兼の曽孫にあたるのが、『太平記』で後醍醐天皇暗殺を企てた公卿として、歴代関東申次の中では知名度がある西園寺公宗(きんむね)だ。

後醍醐天皇の倒幕によって、権力基盤の1つである鎌倉幕府が滅亡し、建武の新政によって先祖代々知行国だった伊予国を没収されるなど、西園寺家は冷遇されることになる。

 

暗殺計画の真相

従来、公宗が昔の栄光を取り戻すべく後醍醐天皇暗殺を計画したと考えられていたが、近年の研究では、彼が後醍醐天皇暗殺を企てた経緯は、もう少し複雑だったとされている。

先述したように、西園寺家の権力基盤は2つある。1つは幕府で、もう1つは天皇家の外戚という立場だ。つまり、鎌倉幕府が滅亡しても、まだ西園寺家には外戚という基盤が残されていた。

当時、後醍醐天皇が属する大覚寺統と、光厳院が属する持明院統の融和策として、他方の内親王を后妃に迎え、生まれた男児を次期天皇に即位させることが決まっていた。

公宗は、後醍醐天皇の中宮として入内した、光厳院の姉にあたる珣子内親王の中宮大夫に任命されている。珣子内親王の生母広義門院は、公宗の叔母の西園寺寧子であり、2人はいとこ同士にあたるからだ。

よって、彼女が男児を産めば、後醍醐天皇の血と持明院統の血と西園寺家の血の3つを引く未来の天皇が誕生し、両統迭立は解消、西園寺家も天皇の外戚として再興する道が開かれていたことになる。

だが、あいにく誕生したのは女児だった。

時同じくして公宗は、先祖代々同盟を結んでいた北条家の生き残りである14代執権北条高時の弟泰家を西園寺家で保護し、武力を確保できていた。泰家は、高時の遺児で甥の時行とも繫がっていた。

さらに、後醍醐天皇の建武の新政は不評で、政権が次第に不安定になりつつあった。

政権交代に必要な武力もあるし、外戚として天皇を確保できるし、後醍醐天皇側は内輪揉めを始めているので付け入る隙がある。すなわち、冷遇されただけでなく、西園寺家再興の条件がそろってしまったから、後醍醐天皇の暗殺計画を立てたというわけだ。

この計画はしかし、公宗の弟の公重(きんしげ)が後醍醐天皇へ密告したことで失敗に終わる。

公宗は、平治の乱(平治元年12月〈1160年1月〉)以来、実におよそ180年ぶりに処刑された現役の公卿となった。

しかし、彼が起こした後醍醐天皇暗殺計画に連動し、北条時行が、中先代の乱を起こす。

この乱を鎮圧するために足利尊氏が鎌倉へ出陣したことで、尊氏陣営で後醍醐天皇の建武政権から独立する機運が高まり、室町幕府設立のきっかけとなった。

公宗の立てた後醍醐天皇暗殺計画は、彼自身の死という苦い敗北に満ちた結末となったが、皮肉にも新たな時代への扉を開けるきっかけにもなっていたのだ。

なお、公重が密告の功績で西園寺家当主となるが、公宗の死後に息子の実俊(さねとし)が誕生したことで、熾烈な家督争いが発生。最終的に実俊が当主となり、西園寺家は継続することになる。

この実俊以降も西園寺家は、関東申次から武家執奏(ぶけしっそう)に名称が改まった、幕府との交渉役も世襲していく。

 

歴史を支えた西園寺家

その後、3代将軍足利義満の代で幕府と朝廷の交渉の仕組みが変わり、長きに亘る西園寺家の役目は終わった。だが、家そのものはその後も命脈を保っていく。

このように、西園寺家に注目して『太平記』の時代を見ると、朝廷と鎌倉幕府の交渉役として歴史を支えていたことや、意図せず新たな時代のきっかけを作っていたことがわかる。

さらに西園寺家に注目していくと、『太平記』の時代の女性達の活躍も見えてくる。

まず、伏見天皇中宮の永福門院西園寺鏱子は、歌人として活躍。当時、男性がするものだった歌合せの主催者や判者(審判)を自らやることで、鎌倉時代後期の和歌文化の隆盛に貢献した。

次に、後伏見天皇女御の広義門院西園寺寧子は、政治的に活躍した。

観応3年/正平7年(1352)に、北朝の三上皇と春宮という、皇位継承者も皇位指名権のある治天の君も、南朝軍によって軒並み吉野へ誘拐される事件が起きた。

足利尊氏の正当性を保証している北朝天皇家がなくなるのは、一大事だ。だが、三種の神器もなければ、前天皇の譲位の意思も表明されていない。その時、尊氏側が担ぎ出したのが、上皇らの母親である広義門院だった。

彼女を治天の君にして、天皇の指名をさせた上で、群臣の推挙を得たという体裁を整え、彼女の孫にあたる後光厳天皇を即位させたのだ。

担ぎ出されたお飾りかと思いきや、広義門院は亡くなるまでの4年間、北朝の皇位継承や人事などの政務にしっかり取り組んでいる。

彼女らは西園寺家の娘達だが、西園寺家の嫁にも活躍した女性がいる。

公宗の妻で実俊の母である日野名子だ。彼女は、宮廷女流日記文学の掉尾を飾る『竹むきが記』を執筆。これは現在、鎌倉時代後期の朝廷の様子など、『太平記』の時代に生きた貴族女性がどのような生活を送っていたのかを知るための、貴重な史料となっている。

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西園寺家で『太平記』の時代を読み解くと、武士だけでなく貴族や女性の活躍もわかり、よりいっそうこの時代を楽しめる。

【羽生飛鳥(はにゅう・あすか)】
作家。昭和57年(1982)、神奈川県生まれ。上智大学卒業。
平成30年(2018)、「屍実盛」で第十五回ミステリーズ!新人賞を受賞。令和3年(2021)、同作を収録した連作短編集『蝶として死す』でデビュー。著書に『「吾妻鏡」にみる ここがヘンだよ! 鎌倉武士』の他、近著に西園寺公宗の妻・日野名子を主人公とした長編小説『女人太平記』がある。

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