後鳥羽上皇御影塔(岡山県倉敷市)
承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が幕府に奪われた権力を取り戻そうとして起こした「承久の乱」。朝廷は幕府軍の内部分裂を狙うなどの戦略を立てるも、敗北。果たして、勝敗を分けた要因は何だったのか? 書籍『日本史 敗者の条件』より解説する。
※本稿は、呉座勇一著『日本史 敗者の条件』(PHP新書)より、内容を一部抜粋・編集したものです
『吾妻鏡』や『六代勝事記』などの歴史書によれば、後鳥羽上皇の北条義時追討令を知って動揺する御家人たちを前に、北条政子は演説を行ない、頼朝から受けた御恩の大きさを御家人たちに思い出させ、幕府への奉公を説いたという。
北条義時とともに数々の権力闘争を潜り抜け、幕府を瓦解の危機から守り続けた政子の言葉には、特別な重みがあった。
政子の演説を聴いて、御家人たちは奮起した。政子が演説を行なった日の夕刻、北条義時の屋敷で幕府首脳部が、今後の戦略を協議した。参加者は、義時・泰時(義時の長男)・時房(義時の弟)、大江広元、三浦義村(胤義の兄)、安達景盛らである。
論点は、積極攻勢策か迎撃策か、どちらを選択するかにあった。東海道の要衝である足柄・箱根の両関所を固めて防衛に専念するという意見が強かった。
幕府は、後鳥羽上皇に反逆するのではなく、後鳥羽上皇の「君側の奸」を討つという大義名分を掲げることで抗戦の正当化を図った。とはいえ、京都に向かって攻め上れば、「朝敵」の誹りは免れないだろう。義時らが及び腰になるのも無理はない。
けれども広元は、「時を移せば東国武士の結束が乱れて敗れるだろう。運を天に任せて早く出撃すべきだ」と主張した。政子の演説によって御家人たちは奮い立ったが、彼らの士気は時間が経てば低下する。追討命令の内容も、いずれは御家人たちのあいだに広がる。「朝敵の義時さえ討てば、わが身は安泰になる」と、保身に走る者が出ぬともかぎらない。鉄は熱いうちに打て、である。広元の卓見には感心させられる。
会議で結論が出せなかったため、義時は鎌倉殿代行の政子に、積極攻勢策と迎撃策の二案を提示し、決断を求めた。政子は「上洛しなければ勝ち目はない」と述べて、武蔵の武士たちが集まり次第、出陣すべきであると説いた。武蔵国は北条氏の強固な政治的・軍事的地盤となっており、鎌倉からも近い。北条氏の影響下にある相模武士・武蔵武士を第一陣とするのが、政子の考えだったのだろう。
そこで、義時は遠江以東の東海道、信濃以東の東山道の武士たちに飛脚を送り、出陣を命じた。この際、義時は「京都より坂東を襲う」と状況を説明している。義時追討命令を「朝廷による倒幕」にねじ曲げ、幕府滅亡の危機を喧伝することで、東国武士の総動員を進めようとしたのである。
ところが、幕府首脳部は再び迎撃策に傾いた。本拠地を離れて不用意に上洛するのは危険ではないか、という意見が出たのだ。鎌倉で謀叛が起こることを警戒したのであろう。
これに対して広元は、「上洛を決定しながら、なかなか出陣しないから、迷いが生まれて反対意見が出てしまった。武蔵の武士を待つために時を重ねれば、彼らも心変わりするかもしれない。北条泰時が自身一騎だけでも出陣すれば、東国武士は後に続くだろう」と、再び積極策を説いた。
そこで政子は、年老いて病に倒れていた三善康信にも諮問したところ、康信も「大将軍一人でも早く出撃すべきだ」と答えた。広元と康信の意見が一致したことで義時もついに決断し、泰時に出撃を命じた。
北条泰時を追いかける形で、東国武士は順次参陣し、京都に向かって進撃した。大軍に膨れ上がった幕府軍が西上、後鳥羽上皇軍に圧勝したことは、周知のとおりである。
それにしても、一連の戦略決定の過程で、義時の影は奇妙なほど薄い。実際、幕府軍の出撃後も、義時は不安だったらしい。
『吾妻鏡』は、次のような話を載せている。義時邸の建物の一つに雷が落ち、一人の人夫が亡くなった。義時は「朝廷に逆らおうとしたらこのような怪異が起きた。滅亡の前兆ではないか」と気に病んだ。これに対し大江広元は、「頼朝公が藤原泰衡を討つために奥州に出陣したときにも落雷がありましたから、むしろ良い結果の前ぶれでしょう」と励ましたという。
『吾妻鏡』は幕府軍の構成を、北条泰時・時房・三浦義村ら東海道軍10万、武田信光・小笠原長清ら東山道軍5万、北条朝時(泰時の異母弟)・結城朝広ら北陸道軍4万、総勢19万騎と記す。なお、慈光寺本『承久記』は東海道軍7万、東山道軍5万、北陸道軍7万と記す。いずれにせよ誇張であろうが、幕府軍有利と見て、我も我もと御家人たちが参加し、最終的に数万の大軍に膨れ上がったことは認めて良いだろう。
一方の後鳥羽上皇方は、慈光寺本『承久記』によれば、総大将は藤原秀康、総勢1万9000余騎だという。これを信じるなら、幕府軍の10分の1ということになる。干戈を交える前に大勢は決したと言える。
幕府方が結束してしまったら、後鳥羽上皇方に勝ち目がないことは最初からわかっていたことだった。ゆえに後鳥羽上皇は、幕府方の内部分裂を狙ったのである。三浦胤義を介して兄の三浦義村を寝返らせる、といった工作によって、幕府軍を自壊させることが基本戦略であった。
ただし、この戦略には根本的な矛盾があった。京都で後鳥羽上皇に奉公する胤義の官位は義村を凌駕しており、義村の脅威となっていた。後鳥羽上皇方が勝てば、義村と胤義の立場は完全に逆転する可能性がある。こうした事情は、一族で在京活動と在鎌倉活動を分担するほかの東国御家人も同様であり、もともと東国御家人たちが説得に応じる確率は低かったと言える。
最大の敗因は、朝廷・上皇の権威を後鳥羽上皇が過信したことにあるだろう。後鳥羽方には鎌倉幕府と袂を分かった御家人、鎌倉幕府に怨念をもつ武士が多くいた。その代表例が三浦胤義である。胤義の妻はもともと二代将軍頼家の妻で、禅暁を産んでいた。
だが、禅暁は承久2年(1220)に幕府に暗殺されて妻が嘆き悲しんだため、北条氏を恨んだ胤義は鎌倉を離れ、後鳥羽上皇に仕えることになった(慈光寺本『承久記』)。ほかにも、幕府に不満をもち後鳥羽上皇のもとに馳せ参じた武士は少なくない。
後鳥羽上皇の周囲には、幕府への怒りを語る武士が集まっていた。武士層全体から見ると一部の意見にすぎないのだが、後鳥羽上皇がそうした極論に影響されて、「幕府が武士たちに支持されていない」と、誤解したのかもしれない。
ところが、蓋を開けてみたら、幕府方の迅速かつ果断な対応も影響して、東国武士たちは次々と幕府の下に馳せ参じ、畿内・西国武士の動きは鈍く、予想以上の兵力差がついてしまった。後鳥羽上皇の焦燥は、いかばかりであったろうか。
冷静に見て、承久の乱で幕府が圧勝したのは、北条義時の英断の結果というより、後鳥羽上皇の自滅によるものと言えよう。自己の権威への過信、耳に心地よい取り巻きたちの声への依存が後鳥羽上皇に悲劇をもたらした。
私たちが学ぶべきは、北条義時ではなく、むしろ後鳥羽上皇なのである。