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長平の戦いとは? 趙軍壊滅を招いた白起と范雎の策略

2025年09月09日 公開

セピア(YouTuber)

中国史

中国春秋戦国時代、趙の名将・廉頗が籠城で秦軍を翻弄した「長平の戦い」。しかし指揮官交代によって趙の運命は大きく揺らぎます。

本稿では、YouTubeチャンネルで歴史解説をするセピアさんの著書『ゾクゾクするほど面白い 始皇帝と春秋戦国時代』から、秦と趙の国運を左右した戦いの一部始終をご紹介します。

※本稿は、セピア著『ゾクゾクするほど面白い 始皇帝と春秋戦国時代』より内容を一部抜粋・編集したものです。

 

中国・戦国時代(前403年-前221年)のこと。趙国の将軍、廉頗(れんぱ)は老いても(推定66歳)なお精強で、いまだに趙最強の将軍といえば廉頗将軍を置いて他になしと言われていました。その趙に対して前262年、秦が攻撃を仕掛けます。秦軍を迎え撃つ趙軍の総大将も、当然のように廉頗が任命されました。

廉頗は45万人とも言われる大軍を率いて首都・邯鄲(かんたん)から出陣し、南西に150㎞ほど進んだ先にある、秦との国境近くに構えた長平城で籠城する作戦を採ります。

「ここは冷静に、遠征軍である秦軍が疲弊するのをじっくりと待とう。」

王齕(おうこつ)がどれだけ挑発してきても、廉頗はいたって冷静に王齕の軍隊を観察し、趙軍は籠城を続けます。

 

趙括、教科書通りの布陣に変更

そして2年の時が経ちました。このままいけば食糧不足で先に音を上げるのは遠征してきた秦軍のほうで、趙軍にとっては順調に進んでいたはずでした。

しかし、趙国内に広まっていた「秦はすでに年老いた廉頗将軍のことなんて全く怖くない」という噂に動かされてしまった趙の孝成王が廉頗を更迭し、かつて廉頗と肩を並べるほどの実力を誇ったという趙奢(ちょうしゃ)将軍の息子・趙括(ちょうかつ)を新たな総大将に抜擢しました。

ところが趙括は父親の将才を全く受け継いでおらず、机の上の勉強だけですべてを理解したつもりになってしまうタイプの人物で、その危うさについてはあの敏腕政治家・藺相如だけでなく、実の父親も母親も見抜いていて孝成王に直訴したほどでした。しかし孝成王は自身の決定を覆さず、総大将・趙括を戦場に送り出します。

趙括が現場の長平に到着すると、苦虫を噛み潰したような顔つきで言います。

「何だこの布陣は? おかしいだろ! 兵法書にはこんな布陣はダメだって書いてある! 君たち勉強が足りてないねえ! ん? これを命令したのは廉頗将軍か? ははは、こんな基本的なことも知らないとはまったく、百戦錬磨の将軍様もたいしたことないない!」

そう言って、廉頗将軍が敵情に合わせて整えていた布陣を教科書通りの「理想的な」布陣に直し、なおも反発する廉頗派の兵士たちを全員クビにして追い出します。

秦の首都・咸陽では、そんな長平城の様子を間者から聞いた丞相・范雎(はんしょ)がニヤリと笑っていました。

「フッフッフッ、私の策が上手くいっているようだな……」

実は、「年老いた廉頗将軍は怖くない」という噂を趙で広めたのは、范雎だったのです。

 

趙括、白起将軍の挑発に乗る

そして白起将軍も密かに動いていました。王齕は副将となって白起が新たな総大将に任命されており、気づけば白起は長平の戦場、籠城を続ける趙軍の目の前にいます。

そして白起は趙括を挑発します。

「ふん、お前が趙括とかいう若造か。どうせお前も廉頗と同じく引き籠もることしか能がない、くだらねえ顔した臆病者なんだろ。あん、悔しかったらここまで来いよ! ほれほれ!」

教科書には敵将が挑発してきた時の対応方法は書いていなかったのか、廉頗が2年間一切応じなかった挑発に、趙括は初日にいとも簡単に乗ってしまいました。趙括は顔を真っ赤にして兵士に戦支度を整えさせ、そして出陣!

こうして長平城の城門が2年ぶりに開きました。秦軍60万人、趙軍45万人、両軍合わせて100万人以上が参戦したと言われる戦国時代最大の激戦の火蓋がついに切られました(長平の戦い)。

怒りに任せて突撃する趙括の軍隊。それを見て「撤退」を命じる白起。引いていく白起を追撃する趙括。

追撃した先は白起軍の本陣で、そこには知らぬ間に堅固な砦が築かれていました。

砦を巧みに使って立ち回る白起軍。地形を把握できずに攻めあぐねる趙括軍。とそこに秦の別動隊が背後から到着。

この一戦の持つ意味を理解し、自ら出陣していた昭襄王も叫んだことでしょう。

「今だあぁぁ!! 囲めえぇぇ!!」

機動力に優れた騎兵隊を操り、素早く趙軍を囲み始める秦軍。補給路を断たれ、身動きが取れない趙軍。総大将が出払って手薄になったところを、もう1つの別動隊によって落とされた長平城。

趙軍は孤立し、秦軍によって完全に包囲されてしまいました。昭襄王と白起と王齕が目を光らせている包囲網からは、1人の兵士も脱出することはできません。仕方なく持ち合わせの食糧で食いつなぐ趙括軍ですが、その分量などたかが知れており、食糧が尽きるとそこらに生えている草木を食い、行軍で連れてきた馬を食い、やがてそれも尽きると、弱った人を殺してその肉を食い始めました。

そうして40日の時が経った頃、趙括は決心します。

「このままじっとしていても状況は悪くなるだけだ…… お前たち、今動ける者は全員立ち上がれ! 行くぞ!」

趙括は軍勢を率いて決死の突撃を試みますが、待っていましたとばかりに飛んできた無数の矢に撃たれて、趙括は戦死してしまいました。

 

あと一歩で趙を滅ぼせなかった白起

この度の「長平の戦い」は白起率いる秦軍の完全勝利となりました。そして白起は、捕虜にした後の扱いに困っていた趙軍の兵士40万人を全員生き埋めにするという暴挙に出たのです。「40万人」という人数は怪しいですが、実際の死者数が何人だったにせよこの戦いで趙の主力軍が壊滅したことは確かで、それは軍事強国の趙が1強の秦に対抗する力を失い、本当の意味で秦1強体制が確立したことを意味しました。 

ちなみに後世になって、長平の戦いの跡地付近で「白起肉」という料理が生み出されました。肉という名前でも実際は豆腐料理で、鋭い刃物で豆腐を切って(斬首)、煮て焼いて(火あぶり)、辛いタレを塗って食べるという、白起への復讐を願う趙の英霊たちが化けて出て作ったような料理です。

なおも数十万の軍隊を預かっている白起は、このままの勢いで攻め上り、邯鄲を攻略して趙を滅ぼすぞと気を吐いています。なんせ主力軍が壊滅した今、趙をあと1戦で滅ぼせるという絶好のチャンスです。ところがそこに先に秦本国に帰っていた昭襄王から、軍を引き揚げて帰国するようにとの国王命令が届きました。

こんなビッグチャンスを逃す手があるもんかと怒り心頭の白起ですが、さすがに昭襄王の命令を反故にして勝手に居残るわけにもいかず、仕方なく秦に帰国します。そして白起は病気だと称して自宅に引き籠もってしまいました。

実はこの撤退命令も、裏で范雎が糸をひいていました。

「白起がこれ以上活躍して昇進してしまうと、俺の立場が危うくなるぞ……」

自分の保身を最優先した范雎は昭襄王を言いくるめて、撤退命令を出させていました。

残念ながら白起と范雎は、趙国の将軍・廉頗と政治家・藺相如の盟友関係に続く、「刎頸(ふんけい)の交わり2号」にはなれなかったのです。ここには秦が大国であるが故の驕りがあるように思われます。

范雎の器が小さいから? 昭襄王の指導力が不足しているから? それとも白起の性格が悪いから?
いずれにせよ、もう後がない状態だった趙の重臣たちの結束っぷりとは全く様子が異なり、天下分け目の頂上決戦の前後だというのに、秦では重臣同士で連携が取れていないどころか足を引っ張る者もいるというのが興味深いところです。

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