秦公一号大墓(陝西省宝鶏市鳳翔区)。春秋時代後期のもので、東西86.3メートル、南北20メートル、深さ14.6メートルに及ぶ
商鞅は秦の君主・孝公に仕え、法家思想を基に刑法を次々に制定し、のちに天下統一を果たす秦国の基礎を築いた。しかし商鞅は悲劇的な結末を迎えることになる。それは一体なぜなのか。歴史作家の島崎晋氏が解説する。
※本稿は、島崎晋著『いっきに読める史記』(PHP文庫)より内容を一部抜粋・編集したものです。
秦の25代目の君主を孝公という。孝公の元年、黄河および華山以東には6つの強国があり、淮水(わいすい)と泗水(しすい)のあいだには10余の小国があった。
秦は西方の雍州に位置していたことから、中原(ちゅうげん)の諸侯の会盟に参加せず、諸侯からは夷狄(いてき)としての待遇しか与えられなかった。そこで孝公は仁政をしくとともに、国中に次のようなお触れをだした。
「昔、わが穆公は岐山(きざん)・雍州の地からおこり、徳を修め、武をふるい、東は晋の乱を平らげて黄河を境とし、西は戎狄(じゅうてき・秦の西方と北方にいた異民族の総称)を従えてその覇者となった。
土地を広めること千里。周の天子は伯の位を賜り、諸侯はみな慶賀の使節を送ってきた。その後、厲(れい)公・躁(そう)公・簡(かん)公・出(しゅつ)公のときに国が乱れて内憂があり、外征をおこなういとまがなかった。これに乗じて、韓・魏・趙は河西の地を奪い、諸侯は秦を夷狄として侮り、国家は大きな恥辱にまみれた。
献公が即位すると、辺境を安撫し、都を檪陽(れきよう)に遷し、東伐して穆公時代の故地を回復し、穆公の政令を修めようとした。わしは先君の心中を思うたびに胸が痛む。賓客・群臣でよく妙計を出し、秦を強くする者があれば、わしは官位を高くし、土地を与えて報いよう」
このお触れをみて、魏の国から公孫鞅(こうそんおう、衛鞅、商鞅)という者がやってきた。公孫鞅はもともと魏の宰相、公叔痤(こうしゅくざ)に仕えていた。公叔痤は公孫鞅の才能を見抜いていたが、まだ王に推薦せずにいるうちに重い病の床についた。魏の恵王が見舞いにきたとき、公叔痤は言った。
「公孫鞅という者は若年ながら奇才の持ち主です。どうか国政を委ねられますように。用いないときは、彼を殺し、決して国外に出さぬようなさいませ」
王が帰ってから、公叔痤は公孫鞅に、王に話したことを伝え、いますぐ逃げるようすすめた。しかし、公孫鞅は、「あの王様なら、わたくしを任用もしなければ、殺しもしないでしょう」と言って、逃げようとはしなかった。果たして、恵王は公叔痤の言葉を病人の世迷言だと受け取り、とりあげようとしなかった。
公叔痤が没したのち、公孫鞅は秦の孝公が賢者を求めていると聞いて、秦に赴いた。衛の国の王室の遠縁にあたることから、衛鞅(えいおう)と呼ばれた。
衛鞅は孝公の信任あつい宦官の景監(けいかん)を手づるとして孝公に目通りを求めた。一度目は帝道、二度目は王道について説いたが、孝公の関心を引くことはできなかった。
そこで三度目には、覇者の道について説いた。すると孝公はようやく関心を抱きはじめた。四度目の面会では、衛鞅が話をしているうちに、孝公はわれを忘れて膝を乗り出し、数日語りつづけてあきないというありさまだった。
秦の孝公は衛鞅に左庶長(さしょちょう)という位を与え、変法をおこなわせることにした。
変法の令では、民を5戸あるいは10戸を組として組織し、誰かが罪を犯せば全員を連座させる。悪事を犯した者がいても、それを訴えなかった場合は腰斬(ようざん)の刑に処し、悪事を訴え出た者には、敵の首をとったのと同じ賞を与え、罪人をかくまった者には、敵に降参したのと同じ罰を課する。
民に2人以上男子がいるのに分家をしなければ、課税を2倍にする。軍功のあった者には、それに応じた爵位を与え、私闘をした者には、それぞれ軽重に応じた刑罰を与える。
本業の農耕機織りにいそしみ、食糧や織物をたくさん供出した者は、課税を免除する。本業を疎かにし、末の利(商いなど)に走って貧しくなった者は、すべて奴隷とする。
公の一族でも軍功のない者は、一門の籍に収めない。身分の尊卑、爵位の等級を明らかにし、それぞれに応じた生活をさせる。功を立てた者は栄誉高く、功のない者は富があっても豪華な暮らしをさせない、などの決まりが定められていた。
変法を定めても、民がそれを信用しないのでは意味がない。そこで衛鞅は一計を案じた。市場の南門に高さ三丈[長さの単位。当時の1丈は2.25メートル]の木を立て、これを北門に移した者には10金を与えると、懸賞を出したのである。
人びとはいぶかしく思って、一人として移そうとする者はいなかった。つぎに、懸賞を50金に引き上げたところ、一人の者が木を移したので、その者に50金を与えた。国の発する命令に噓のないことを明らかにしたのである。
こうした下準備を経て、いよいよ変法の令が公布された。最初の1年のあいだに、都へ来て、法令が不便だと訴える者が千人を数えた。
そのとき秦の太子が法を犯した。衛鞅は、「法がおこなわれないのは、上の者が犯すからだ」と言って、太子を罰しようとした。しかし、さすがに太子を処刑するわけにはいかない。そこで守り役の公子虔(こうしけん)を杖打ち、太子の師であった公孫賈(こうしか)を入れ墨の刑にした。
翌日から、秦の人びとはみな法令によく気を配るようになった。法令が公布されてから10年たつと、道に落ちた物をひろわず、山には盗賊なく、家々はみな豊かで、秦の人びとはこれを大いに喜びとした。民は公の戦争に勇みたち、私闘はおこなわず、町も村も治安がよくなった。
当初、法令は不便だと言った者で、今度は便利ですと言いに来る者があった。衛鞅は、「これらは教化を乱す民である」と言って、ことごとく辺境の城へ移住させた。これより法令について議論する者はいなくなった。
更新:11月21日 00:05