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「法の弊害、これほどか...」自ら制定した法律で落命した“商鞅の悲劇”

2023年06月02日 公開

島崎晋(歴史作家)

 

商鞅が迎えた悲劇的結末

その後、衛鞅は大良造(たいりょうぞう)に任ぜられ、兵を率いて魏の安邑(あんゆう)を包囲し、これを降伏させた。それから3年して、咸陽に門や宮殿を造営し、秦の都を雍からそこへ遷させた。

一方、民政の改革にも力を入れた。民の父子兄弟が同じ家に住むことを禁止した。小さな町や村を集めて県とし、令と丞を置き、合わせて31県とした。田地のあいだの境界を廃して、課税を均等にした。枡、秤、物差しを統一した。

これらの法令が公布されて4年目、公子虔が再び法を犯したので、鼻そぎの刑に処せられた。それから5年、秦の人は豊かになり、国力も増強された。周の天子から祀り用の肉が届けられ、諸侯もことごとくこれを祝賀した。

あくる年、斉が馬陵の戦いで魏を破った。そのあくる年、衛鞅は孝公に、今こそ魏を討つべきときであると進言した。衛鞅が大将として出撃すると、魏は公子卬を大将として迎撃した。両軍が対峙したとき、衛鞅は公子卬に書簡を送った。

「わたくしは公子様と親しくしておりました。ですので、攻めあうに忍びません。公子様の面前で盟約をたて、酒宴をして兵を引き、秦魏両国とも安らかにしたく存じます」

公子卬はもっともと思い、誘いに応じた。会盟を終わって酒もりをしていたとき、伏兵が踊りでて公子卬を捕虜にした。それから秦軍は魏軍を攻め、大きな打撃を与えたのち帰国した。

魏の恵王は斉・秦との戦いに幾度も敗れ、国庫の貯えも乏しくなり、領土も削られていくのに恐れをなして、河西の地を割譲することで秦と和睦を結んだ。そして都を安邑から大梁へ遷した。恵王はこのときになって、公叔痤の言葉を用いなかったことを後悔した。

衛鞅が魏を撃破して凱旋すると、孝公は恩賞として、於(お)と商の15カ邑を与え、商君と称することを許した。商鞅は10年間にわたり秦の宰相をつとめたが、秦の公子や外戚など、彼に怨みを抱く者は多かった。

趙良という者が忠告をした。

「あなた様の行く末は朝露のように危険でございます。それでも寿命を延ばしたいとお考えならば、ご領地をお上に返上なさり、地方に隠退なさるしかありません。秦公には山奥に隠れた賢者を探し出し、老人や孤児をいたわって、功のある者には位をすすめ、徳ある者を尊ぶようおすすめなさいませ。そうすれば、少しは危険の度合いも減ることでしょう」

しかし、商鞅はこの忠告に従わなかった。5カ月後、孝公が没して、太子が位につき、恵王となった。恵王の守り役であった公子虔らの一党は商鞅が謀反を図っていると訴えた。かくして、追われる身となった商鞅は関所の近くまで来て、宿屋に泊まろうとした。しかし、宿屋の者は言った。

「商君様の法令で、手形を持たない旅人を泊めるといっしょに罰せられます」

商鞅は思わずため息をついて言った。

「ああ、法の弊害は、これほどのものであったか」

商鞅は魏の国へ逃れようとしたが、魏では商鞅が公子卬を欺いたことを怨んでいて、国へ入れようとしない。そこで商鞅は他の国へ逃れようとしたが、魏の人びとは、「商君は秦では謀反人だ。秦は強大だから、その謀反人を送り返さないのはまずい」と言って、商鞅を秦へ護送した。

商鞅は秦へ送り返されたのち、商邑に逃れ、徒党を組み、北へ出て鄭県を攻めた。秦は兵をくりだして商鞅を攻撃し、鄭の黽池(べんち)において殺した。

秦の恵王は商鞅の遺体を車裂きにして引き回したうえ、「商鞅のような謀反人が二度と現われないように」と言って、その一族を皆殺しにした。

 

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