
本格大河からファンタジーまで、多彩なジャンルの中国時代劇が注目を集めている。
中でも根強い人気を誇るのが、寵姫たちが皇帝の愛情を独占すべく競い合う宮廷ロマンスだ。実際の中国王朝における後宮も、ドラマのように華やかでドロドロとしたものだったのだろうか? 今回は、その中でも烈婦と語られた女性を紹介しよう。
※本稿は、『歴史街道』2024年7月号より、内容を一部抜粋・編集したものです
南北朝時代に中国の北半分を支配した北魏。文成文明皇后はその5代文成帝(440〜465年)の皇后で、馮氏、馮太后とも呼ばれる。
北燕の皇族をルーツに持ち、父は馮氏が幼い時に罪に問われ処刑された。そこで、3代太武帝の側室だった叔母を頼って後宮に入り、太武帝の孫にあたる2歳年上の文成帝に見初められた。
文成帝は宦官を排斥するなど若くして名君として期待され、馮氏も皇后に立てられて寵愛を受けたが、文成帝は26歳の若さで病死してしまう。馮氏は悲しみのあまり火葬中の亡骸に飛び込み、大火傷を負いながら一命をとりとめたという。
その後、長男の献文帝が後を継ぎ、太后となった馮氏が後見人となる。北魏では、外戚が力を持つことを防ぐため、皇帝の生母は自害させられる決まりで、献文帝の実母は殺され、馮太后とは血縁関係になかった。
成長した献文帝が義母の馮太后の意に逆らうようになると、馮太后は献文帝の子でわずか五歳の孝文帝に譲位させ、やがては献文帝を毒殺した。
非情な手段で権力を手に入れた馮太后だが、政治家としては卓越した手腕を持ち、さまざまな政治改革を行なった。
同じ姓を持つもの同士の婚姻を禁ずる「同姓婚禁止」。そして、官吏に俸禄を与える「俸禄制」が導入された。それまで官吏の収入は賄賂が主だったが、俸禄を与える代わりに賄賂を禁止し、違反した者は処刑した。
民には戸籍に準じて田畑を分け与える「均田制」、米の代わりに布麻などを税として納めさせる「租調制」を実施。また、近隣の5戸を最小単位とし、3段階に組織分けする「三長制」により地域の結束を高めた。
こうした制度は、孝文帝に引き継がれ、北魏の最盛期を築くことになった。そして、北魏滅亡後も隋や唐に受け継がれ、遣唐使を通して日本にまで伝えられた。
武則天は本名を武照といい、14歳で唐の2代太宗(598〜649年)の後宮に入る。
才人という低い身分で、流言により太宗から遠ざけられたが、当時皇太子であった3代高宗(628〜683年)に気に入られ、太宗没後に出家すべきところ、序列三位の昭儀(しょうぎ)として後宮に返り咲いた。
復帰後はそれまで高宗から寵愛されていた蕭淑妃(しょうしゅくひ)を抜き、さらに正妃である王皇后を陥れて失脚させると、新たな皇后に立てられる。そして、蕭淑妃と王皇后を処刑すると、凡庸な高宗に代わって政治でも実権を握った。
武皇后は下級貴族の出身で後ろ盾がなかったため、身分は低くても有能な人材を重用した。武皇后が抜擢した狄仁傑(てきじんけつ)は、名宰相として後世に名を残し、姚崇(ようすう)、宋璟(そうけい)といった人材は後の六代玄宗の代でも活躍した。
外交面では、隋の代から何度も失敗していた朝鮮半島の高句麗征伐を成し遂げた。朝鮮半島を統一した新羅、高句麗遺民が建てた渤海国とは一時険悪になるも、その後服属させている。
やがて、高宗が崩御すると息子の中宗が即位する。しかし、中宗が敵対的な姿勢を見せると廃位し、弟の睿宗(えいそう)を即位させた。武照の専横に対して反乱の兵を挙げる者もいたが、ことごとく鎮圧されている。
そして690年、睿宗をも廃すると、自らが女帝となって国号を周に改めた。以後、武照は武即天、国は武周と呼ばれる。
武即天は自分に忠実な宦官や寵臣をそばに置き、密告を奨励して酷吏が取り締まる恐怖政治をしいた。ただ、狄仁傑らの諫言を聞き入れるなど政治感覚には優れ、武周の政治は安定した。
そんな武即天も、晩年には病がちになり、唐の復興を望む声が大きくなるのを受け、一度廃位した息子の中宗に譲位。武周はわずか15年で消滅し、武即天は中国史上初の、そして唯一の女帝として生涯を終えた。
更新:08月03日 00:05