
摺上原(すりあげはら)の戦いで勝利を飾った名将・伊達政宗。その背景には、天候を見極めた巧みな戦術があったと伝わります。城好きで知られる気象予報士の久保井朝美さんが、日本の風土と城の工夫、天気を味方にした合戦や武将など、日本全国37の城を題材に「天気×城」の新視点を紹介した書籍『城好き気象予報士とめぐる名城37 天気が変えた戦国・近世の城』より解説します。
※本稿は、久保井朝美著『城好き気象予報士とめぐる名城37 天気が変えた戦国・近世の城』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです
豊臣秀吉も徳川家康も一目置いたといわれる、戦国武将の伊達政宗。
戦国時代に奥州で勢力を拡大していた政宗にとって重要な戦いになったのが、1589(天正17)年の「摺上原の戦い」です。
福島県にある磐梯山(ばんだいさん)の麓で行われ、鎌倉時代から約400年にわたって会津を治めていた名家・蘆名氏の蘆名義広を倒しました。
この勝利によって、伊達政宗の奥州制覇が現実味を増します。政宗は、限られた期間にみられる風の特徴を巧みに利用して、戦いを有利に運んだのです。
磐梯山を背に、東側に伊達軍、西側に蘆名軍が陣を敷いて、戦が始まりました。
実は、伊達政宗は戦の前から蘆名義広の家臣たちと接触し、寝返るように説得していたといいます。ということで、伊達軍は2万人以上、蘆名軍は約1万6000人でしたが、実際にはもっと大差で伊達軍の方が有利だったはずです。それにもかかわらず、序盤は、蘆名軍が優勢になります。
原因は、強い西風です。伊達軍にとっては向かい風のため、土埃などでまともに目を開けられませんでした。
ただ、この状況は政宗にとって想定の範囲内。朝は西風が吹いて不利だけど、昼過ぎからは風向きが変わって東風が吹くから有利になる、と読んでいたのです。
予想通り、強かった西風がおさまり、次第に東風となりました。このタイミングを待っていた政宗は一気に攻めて、形勢が逆転します。蘆名軍は向かい風に変わって視界が悪くなる中で、伊達軍の総攻撃を受けて総崩れしました。
なぜ政宗は風向きの変化を読めたのでしょうか?
戦いが起こった1589(天正17)年6月5日は、新暦で1589年7月17日。東北南部の梅雨明けの平年日は7月24日頃なので、梅雨末期でした。
同じ時期の類似例を探したところ、2011(平成23)年7月30日は、戦場に近い福島県の若松や猪苗代で、風向きが西から東に変わっています。この日、梅雨前線が福島県のすぐ北に位置していました。
一般的に、梅雨前線がすぐ北にあって、その梅雨前線上を低気圧が進むとき、風向きが西から東に変わります。逆に、梅雨前線が南にあると、東から西に変わります。
梅雨前線は西日本から北上していくので、福島県のすぐ北に位置するのは梅雨末期です。風向きが西から東に変わるのは、福島県にとっては、この時期の特徴といえます。摺上原の戦いの日も、梅雨前線が福島県のすぐ北にあったのでしょう。
政宗は、蘆名軍から寝返った武将から風の情報を得たそうです。梅雨末期ならではの風の"サイン"に気づいて、「千載一遇のチャンス!」と捉えた可能性があります。
一方の蘆名氏は、約400年も会津を治めていたため、長年の経験から梅雨の傾向は知っていたはずですが、梅雨末期というごく限られた期間の風向きの変化は気に留めていなかったのかもしれません。
梅雨末期の風の"サイン"を捉えて作戦に生かした政宗に、軍配が上がりました。

『城好き気象予報士とめぐる名城37 天気が変えた戦国・近世の城』(PHP研究所)
更新:08月31日 00:05