2025年04月10日 公開
仙洞御所庭園
戦場での活躍こそが華とされ、武功を挙げた人物が注目されることが多い戦国武将。しかし、合戦での功績は少なくとも、文化面で大きな足跡を残した武将たちもいました。時代が違えば、より評価されていたかもしれない人物も...。本稿では、多様な才能を発揮した武将・小堀遠州を紹介します。
「マルチタレント」という言葉がある。多方面の才能に恵まれ多種多様な実績を挙げる、そんな男が戦国時代にもいた。それが小堀遠州だ。天正7年(1579)、近江長浜の近くに生まれた遠州は、実名を政一(正一)という。
父の正次が豊臣秀吉の弟・秀長の家老となると、政一も従って大和郡山に住んだ。 天正16年(1588)、数え10歳のとき、千利休が茶湯を秀長に教えている部屋に、給仕のため入ったと本人が回顧しているが(『茶道四祖伝書』)、これが遠州と茶湯名人との最初の出会いだろうか。父からも茶道の手ほどきを受けたと伝わるのは、この後のことだろう。
その後、文禄4年(1595)に伏見の秀吉のもとに出仕した遠州は、ここで古田織部に弟子入りする。千利休の直弟子で、利休死後秀吉によって「天下の茶人」にひきあげられた織部との出会いは、遠州の人生を決定づけることとなった。
彼は、独自の創意工夫を披露して織部を驚嘆させ、18歳のころには「やがて名人に」と将来を嘱望されたという。創意工夫を身上とした織部にも優る独創性を発揮するとは、その才能には感嘆する他ない。 慶長3年(1598)、秀吉が死去すると父とともに徳川家康に仕えた遠州は、関ヶ原の戦いにおける戦功で備中の奉行に任じられ松山城を預かった父・正次が慶長9年(1604)に亡くなるとその跡を継ぎ、茶道以外にも多様な才能を発揮し始める。
まずは作事(建設)だが、遠州は戦国時代の松山城のうち、小松山の施設の再建補修と「根小屋」と呼ばれる麓の居館の修築をおこない、後陽成上皇の御所、名古屋城天守、駿府城、禁裏造営と、幕府から重要な工事の責任者に次々と任じられていく。
家康の信任を受ける築城名人・藤堂高虎の養女を妻に迎えたことによって、高虎のノウハウも人脈も受け継いだのだろう。 師の織部が大坂城の豊臣家への内通を疑われて切腹させられてからも、遠州に対する幕府の信頼は変わらず、伏見城本丸書院、二条城、仙洞御所と各所の建築現場を駆け回った。
寛永10年(1633)には近江水口城の普請奉行を務め、「碧水城」と呼ばれる優美な城を築いた。なかでも本丸には、この年、同時進行で数寄屋造りをおこなった二条城の御殿様式を採り入れた華麗な御殿を設け、庭園とそれを望む2階建の御亭を造って目玉とした。
作庭(造園)面でも仙洞御所などの庭園に池水を設けて、直線と幾何学的な形状により計算された人工美を感じさせ庭の背後の風景をも取り入れる造園法で「借景の美」を完成させる。
細部にまで神経の行き届いた工夫はまた茶道にも返り、織部の後の「天下の茶頭」として、彼の茶湯は雅やかな「きれいさび」と呼ばれて「遠州流」を成した。また書画や美術工芸品のデザインにも一流の腕を示した。
更新:04月19日 00:05