勝林寺にある田沼意次の墓(東京都豊島区)
田沼意次は江戸幕府の財政再建を担い、 経済政策を次々と打ち出した。しかし、その手法は「利権政治」という批判も生み、 後世の評価は大きく分かれている。田沼意次の功罪について、書籍『日本史 敗者の条件』より解説する。
※本稿は、呉座勇一著『日本史 敗者の条件』(PHP新書)より、内容を一部抜粋・編集したものです
現在(2025年)放送中のNHK大河ドラマ『べらぼう』の主人公は、喜多川歌麿・東洲斎写楽などをプロデュースした江戸の出版人、蔦谷重三郎である。重三郎が活躍した時代は、老中(現代の取締役に該当)の田沼意次が江戸幕府の政治を牛耳っていた。
田沼意次は享保19年(1734)、16歳のときに、八代将軍徳川吉宗の長男である家重の小姓となった。延享2年(1745)に家重が九代将軍に就任すると、将軍の小姓となり、翌年には小姓のトップである小姓頭取に昇進した。その後も御用取次見習、御用取次と昇進を重ねた。
宝暦10年(1760)に将軍家重が引退し、家重の子の家治が十代将軍になった。将軍が代替わりすると、側近も総入れ替えになるのが普通なので、意次も御用取次を辞職することになるはずだった。
ところが家重の意向もあり、意次は御用取次を留任となった。家治の下で意次はさらに目覚ましい出世を遂げていく。明和4年(1767)に側用人(現代の秘書室長に該当)に就任し、安永元年(1772)には側用人兼務の老中という前代未聞の地位に就いた。ここに意次の権勢は頂点に達した。
将軍家治は積極的に政務に関わろうとせず、意次を全面的に信頼して政治を委ねたため、意次は幕府権力を完全に掌握した。現代にたとえるならば、さしずめオーナー会長に全権委任されたサラリーマン社長といったところだろうか。
さて田沼意次は戦前戦後を通じて、賄賂を好む汚職政治家として、大変評判が悪かった。こうした田沼意次像を鮮やかに転換したのが、歴史学者の大石慎三郎氏が1991年に発表した『田沼意次の時代』(岩波書店)である。
大石氏は、田沼が金権政治家であったことを示すとされてきた史料のほとんどは、田沼失脚後、世間に流れた噂話の類を書き留めたものであると論じた。そして大石氏は田沼の政策を再評価し、「すぐれた財務家であるが、誠実一筋の人間であるうえに常々目立たぬよう目立たぬよう心掛けていた、大変な気くばり人間であった」と結論づける。
そんな田沼が失脚したのは、家柄が低いにもかかわらず、実力によって老中兼側用人として幕府の中枢まで上り詰め、大胆な改革を行なっていたため、無能で前例踏襲的な譜代門閥層の嫉妬と反感を買っていたからだという。
田沼失脚後に成立した松平定信政権は、現実に対応する柔軟な適応力に欠けた反動保守政権であり、以後の幕府権力は基本的にこの路線を継承する。田沼の失脚を転機として幕府権力は硬直化を強め、衰退の方向をたどった、というのが大石氏の見解である。
現在の「田沼再評価論」は、基本的に大石氏の主張を発展拡大させたものである。とくに、緩やかな物価上昇を是とする「リフレ派」と呼ばれる経済学者・経済評論家と、その影響を受けた保守派の論客のあいだでは、田沼意次の経済政策に対する評価が高い。
いくつか例を挙げよう。経済評論家の上念司氏は「意次は『経済の掟』でいうところの『自由な商売』を奨励し、公共事業によって干拓や道路整備などを進めることで初期資本主義のインフラを整備しようとしました」と、その「重商主義」を称賛している(『経済で読み解く明治維新』KKベストセラーズ、2016年)。
作家の百田尚樹氏に至っては、「もし意次が失脚せず、彼の経済政策をさらに積極的に推し進めていれば、当時の経済は飛躍的に発展していた可能性が高い。そうなると日本は世界に先駆けて資本主義時代に入っていたかもしれない」とまで述べている(『日本国紀』幻冬舎、2018年)。
けれども、近年のリフレ派による田沼評価は、悪徳政治家という不当なレッテルを訂正する「再評価」ではなく礼賛の域にまで達しており、違和感がある。
現在の歴史学界では、田沼の評価に対する揺り戻しが起こっており、田沼の政策の限界・問題点が指摘されている。田沼は、その斬新な政策を理解できない守旧派に足を引っ張られたから失脚したとは必ずしも言えない。田沼自身の政策に欠陥があり、改革が挫折したからこそ、失脚したのである。
その意味で、田沼はやはり敗れるべくして敗れた「敗者」であり、彼を悲劇の改革者として過剰にもち上げるべきではない。ここでは、田沼の主要政策の意図と問題点について探っていく。
江戸開府以来、幕府財政は鉱山(金山・銀山)収入と長崎貿易の収入に支えられて良好だった。しかし、鉱山の枯渇と貿易制限によって鉱山収入と貿易収入は激減し、元禄の末年ごろには、財政赤字が深刻化していた。
八代将軍徳川吉宗は幕府財政再建のため、新田開発と年貢増徴を推進した。この年貢増徴策は農民の強い反発を呼び、天領(幕府直轄領)において百姓一揆が頻発した。
この増税路線は吉宗の死後も継続されるが、幕府要人の後押しを受けて年貢増徴を図った美濃の郡上藩で大規模な百姓一揆(郡上一揆)が発生したことで、転機が訪れる。
幕府の裁定により郡上藩主金森氏は一揆発生の責任を追及され改易(藩の取り潰し)となり、郡上藩を応援していた幕府中枢部の老中・若年寄・大目付・勘定奉行らも失脚した。そしてこの裁判を審理し、事態を収拾した田沼意次が台頭、かくして「田沼時代」の幕開けとなる。
郡上一揆の発生を受け、田沼意次は、年貢米を多く取り立てるという形での財政再建策はもはや限界であると認識し、政策転換を行なった。それは、大石氏の言葉を借りれば、「直接税の引上げはやめて、新たに元禄以来とくに盛んになった商品流通に課税して税の不足分を補うという、いわば間接税の採用」であった。
具体的には、田沼は株仲間(業界団体)や会所(会社)の設立を積極的に認可して、その営業上の利権を公認する見返りに、運上・冥加金という事業税を上納させたのである。
田沼を経済に明るい先見性のある改革者と評価する人びとは、流通課税の実行を重視する。
百田尚樹氏は「この政策はあまり評価されていないが、私は画期的なことであったと思う。江戸幕府が開かれて150年以上、どの将軍も老中も思いつかなかったことだ。いや、むしろ経済がこれほど発展し、商人たちが大きな収益をあげ、その金を大名たちに貸して利益を得ていたにもかかわらず、彼らの利益から徴税することに気付かなかったのは不思議だというべきか」と述べている。
たしかに、この田沼の施策が幕府財政の改善につながったのは事実であろう。けれども、経済全体の活性化につながったと言えるだろうか。
百田氏も言及しているように、株仲間とは要するに、幕府から営業の独占権を与えられた商人の集まりである。株仲間は特権を与えられたわけで、株仲間以外の商人が新規参入することを排除するという意味で、排他的である。
もともと株仲間制度は、徳川吉宗の時代に江戸町奉行の大岡越前守忠相が提案、実施したものである。消費者物価の高騰(インフレ)への対処として、商人に同業者組合をつくらせて、流通を取り締まらせることで物価の上昇を抑えようとしたのである。
この株仲間に上納金を要求したところに田沼の独創性があるが、上納金目当てに株仲間を次々と認可していっては、流通を阻害すること甚だしい。株仲間は、流通統制を名目に新規参入を排除するからである。
さまざまな分野で株仲間が結成されれば、経済はかえって停滞する。自民党への企業・団体献金と、業界団体の自民党への陳情が、中立公正であるべき政策を歪ませているのではないか、としばしば批判されるのと同種の構造である。
会所の広範な認可にも問題がある。民間の業者が、このような事業を起こせば世のため人のためになるから認可していただきたい、と幕府に請願して許可されることで、会所は設置される。しかし、この場合も会所は独占的な営業権を認められるわけで、必ずしも地域住民や関連業者の利益になるとは限らない。実際、会所設置に対し住民が反対運動を起こした例もある。
幕府は会所と住民の利害を調整しようと試みてはいるが、高額な冥加金の上納を期待し、人びとの反対を押し切って認可することもままあった。
さらに問題なのは、商人たちが認可を得るために、許認可権をもつ役所の奉行や職員に働きかけたことである。当然のことながら、贈収賄が盛んに行なわれることになった。
もちろん、商人が幕府の役人に賄賂を贈ることは以前からあった。しかし、田沼が新規事業の立ち上げを奨励したことが賄賂横行の温床になったことは否定できない。田沼の施策は利権政治を加速させたのである。
なお、この利権政治の要に位置していた田沼が清廉潔白であったはずはない。田沼家は、600石の旗本から5万7000石の大名家へと急成長した成り上がりであり、代々受け継がれてきた家法(大名家のルール、行動規範)や譜代の家臣をもたない。いきおい、家臣の統制が甘かった。田沼本人はさておき、田沼の家臣たちが賄賂を受け取っていたことは確実である(『相良町史 資料編 近世(一)』)。