2023年11月09日 公開
人生における悩みの指針、恋の美しさ、読書の楽しさ......。名作古典に触れることで、人生はより豊かなものになる。ここでは、古典作品にあまり触れたことのない世代にもぜひ読んでほしい、お勧めの作品を3つ紹介しよう。
※本稿は、『歴史街道』2023年11月号より、一部抜粋・編集したものです。
【長尾剛(作家)】
昭和37年(1962)、東京都生まれ。東洋大学大学院修了。日本史・日本文学・儒教・仏教・心理学などの人文科学系ジャンルを、わかりやすい読み物にする作家として定評がある。著書に『世界一わかりやすい「孫子の兵法」』『ねこ先生』『古関裕而 応援歌の神様』『女武者の日本史』『牧野富太郎の恋』などがある。
『論語』は儒教の創始者・孔子の教えを弟子たちがまとめた、言わば箴言集の元祖。
孔子は「人は、どうあるべきか」を生涯のテーマとして、日常生活、社会のあり方、学問、経済、政治などの正しい方向性......といった問題をさまざまな方面から考え抜き、整理して、短い言葉で弟子たちに伝授した。孔子の死後、弟子たちが記憶を持ち寄って、これら孔子の言葉をまとめ、書物としたもの。それが『論語』だ。
『論語』は、3世紀頃に日本に伝わったとされているが、当時は一部の仏教者や宮中のインテリのあいだで親しまれる程度で、一般には、知られなかった。
日本人が本格的に広く『論語』を知り、触発されたのは、安土桃山時代の終盤頃から江戸時代全般にかけての期間。武家層はもとより、一般の町人や農民に至るまで、人生の指針を『論語』に求めた。
こんにちの世界でも「日本人は正直で公共精神に優れている」と評価されがちなのは、江戸時代以降、日本人が倫理道徳や正義の定義を『論語』に拠っている──という大きなバックグラウンドがある。
それほどのものだけに、ハッキリ言ってしまえば、現代にあっても人生の悩みの大半は『論語』の中に解答がある。大著ではあるけれど、現代語訳も数多くあるので、まずは少しずつでも読んでみることがお勧めだ。
『論語』の中の言葉には、こんにちにも一般によく使われるものがある。「ああ。それ聞いたこと、ある」といったものが、少なからず存在する。
たとえば、「学んで時にこれを習う。また説ばしからずや」は、何かを知ったり教わったりするチャンスに恵まれたなら、そのことを忘れないように復習し、自分なりの知識・教訓として、頭の中で整理する。そうすれば、それが別の所で生きてくる。その時の充実感、自分が成長したという実感は、じつに嬉しいものなのだ。
──といった意味である。
人は幾つになっても「知らなかったことを知るチャンス」に、出会うものだ。その体験を、その場凌ぎで受け流してしまうことは、いつか遭える人生の喜びを捨ててしまうことになるだろう。
『論語』の言葉は、いずれも深く広い意味の教えとして、我が身に生かされるものばかりだ。
ひとりの男を主人公として、さまざまな人間関係が描かれた短編集。最大の特徴は、ジャンルとして「歌物語」と呼ばれているように、ドラマの肝となる登場人物の台詞が和歌となって描かれているところだ。たとえるなら、日本古典のミュージカル。
おもにさまざまな恋愛の形が描かれているが、そのほかにも、主従の信頼関係、親子の愛情、男同士の友情など、人と人の心のつながりが、ドラマと和歌で綴られていく。
それらはいずれも、生々しい欲望とは無縁の、じつに美しい人の心のドラマとして描かれる。成就した恋愛も、悲しい結末の恋愛も、人の心を荒ませることなく、どこまでも、哀れにも美しく展開する。作中に散見する和歌は、いずれも恋の歌として奥深い。それらが登場人物の心の美しさを一層引き立て、奏でている。
『伊勢物語』は、発表当時からじわりじわりと、人々のあいだで人気が広まり、その後の時代も広く読まれた。鎌倉後期の有名な随筆『徒然草』にも「恋をいかに美しくするべきか」の指南書として、紹介されている。江戸時代には、嫁入り道具の一つとして用いられることも多かった。
ドラマなどで描かれる恋愛では、時には欲望が剝き出しになることもある。しかし「引き際の美学」というものを知らなければ、その結果として、愛する人をより一層傷つけることにもなりかねない。そんな恋愛は、その後の人生の糧にはならない。『伊勢物語』を通じて、現代人は恋の美しさを再認識したいものだ。
更新:12月10日 00:05