戦国時代には、いつ滅びてもおかしくなかった前田家。前田利家の娘に生まれた麻阿、豪、千世も、家のために嫁ぎ、生きることを求められました。
婚家で務めを果たし、実家に戻り、第二の人生を歩んだ姉妹。この10月に『麻阿と豪』を上梓した諸田玲子さんの目に映った政略結婚の意味とその後とは──。
※本稿は『歴史街道』2022年12月号より、一部を抜粋・編集したものです。
江戸時代には、加賀百万石と言われ、外様大名でありながら抜群の存在感を示していた前田家。しかしその前田家も、戦国時代には、いつ潰されてもおかしくない一家にすぎませんでした。
前田家を存続させるため、利家は様々な手を打っていきます。その一つが、娘たちを有力大名に嫁がせ、協力関係を確固たるものにする策でした。乱世の習いとして各家は、生き延びるために娘たちに政略結婚をさせたり、家臣と結婚させて一族の結束を深めていったのです。
織田信長、徳川家康といった天下人も同様で、各大名家に娘たちを送り込んでいます。
利家は尾張荒子の土豪の息子でしたが、織田信長の馬廻り衆に採りたてられ、柴田勝家の与力となり、のちに越前府中三人衆の一人になりました。
そして天正9年(1581)、信長から能登一国23万石を任せられるまでになるのですが、周囲には有力大名がひしめいており、一つ判断を誤れば、いつ攻め滅ぼされてもおかしくない状況だったのです。
天正10年(1582)、本能寺の変により信長が斃れた後、羽柴秀吉が急激に力をつけていきます。利家と秀吉は、共に信長に仕える者として古くからの付き合いがあったのですが、その秀吉が、利家の上司にあたる勝家と対立したときには、利家は板挟みとなり、難しい決断を迫られました。
天正11年(1583)、賤ケ岳の戦いで秀吉に敗れた勝家は、北ノ庄城で自刃に追い込まれます。以後、利家は秀吉と蜜月時代を築いていくのですが、苦渋の決断を迫られたときも、ほっと一息ついたときも、利家を献身的に支えていたのが、妻のまつ、そして娘たちでした。
本能寺の変の翌年、勝家と秀吉の対立が鮮明になったころ、利家は勝家に忠誠を誓うため、三女の麻阿(摩阿)を勝家の猶子(家臣という説もあり)に嫁がせるべく、北ノ庄城へ送り込みます。
このとき、麻阿は12歳。ところがほどなくして北ノ庄城は秀吉に攻められて落城し、麻阿の許嫁も命を落としてしまうのです。
命からがら城を抜け出し、越前府中に戻った麻阿。その胸中は想像するにあまりあります。
しかし、麻阿の不幸はさらに続きます。心に傷を負った麻阿は、京都見物に出かけた折、秀吉に見初められ、秀吉の妻になることを望まれるのです。
ちなみに、秀吉の正室はおね、それ以外は側室と記された資料をよく目にするのですが、正室・側室という区分けは江戸時代になって「武家諸法度」が制定され、一夫一婦制が推奨されてからのこと。戦国の世までは、一夫多妻制で、妻が何人かいるのは当たり前でした。
秀吉と友好関係を結んでおきたい前田家としては、秀吉の申し出を断ることはできなかったのでしょう。麻阿にとっては、親子ほど年の離れた秀吉との結婚が幸せだったとは思えません。しかし、実家のため、麻阿は粛々と運命を受け容れていきます。
そんな麻阿に、のちに秀吉は聚楽第の財宝の管理を任せています。前田家を立てる意味もあったのでしょう。
秀吉は、麻阿の他に、淀殿や京極竜子、信長の娘である三の丸殿など、妻を何人も持っていますが、加賀殿と言われていた麻阿については、利家の娘ということで、尊重していた節があります。
秀吉は農民から天下人に成り上がった人なので手勢がいないのです。だからこそ、古くから付き合いのある利家のことは敵に回したくなかったのでしょう。
10年余り秀吉に仕えた麻阿ですが、秀吉が亡くなる少し前に離縁を申し渡され、前田家に戻ります。詳しいいきさつはわかりませんが、豊臣家の行く末を心配し、前田家を味方につけておきたい秀吉が、利家の願いを聞いた可能性は十分あります。
秀吉の死後、公家の万里小路充房と再婚した麻阿。この結婚には、政略的な臭いがしませんし、子供も生まれています。
病がちだった麻阿は、残念ながら30代で亡くなりますが、彼女が亡くなったとき、充房が大きな声をあげて泣いたと資料に残っているので、結婚生活は、それなりに幸せなものだったのではないでしょうか。
更新:11月22日 00:05