三女の麻阿に比べて四女の豪の人生は、前半生は幸せそのものでした。生まれた直後に、子供がなかった秀吉夫妻に養女として引き取られ、蝶よ花よと育てられたのです。
利家とまつが豪を秀吉・おね夫妻に託したのは、子供がいない秀吉夫妻に頼まれてのことだったのでしょう。子供のない家が他家から養子をもらうことは、珍しいことではありませんでした。
秀吉夫妻が目に入れても痛くないほど可愛がったと言われる豪は、同じく秀吉お気に入りの武将・宇喜多秀家に嫁ぎます。
なぜ宇喜多だったのか──。備前を治める宇喜多家は、秀家の父・直家没後、秀家が若かったこともあり、中国攻めをしていた秀吉に従います。毛利領の喉元に位置する備前の地を押さえておくことは、秀吉にとって重要なことだったのでしょう。秀家の人柄が、秀吉にとっては与しやすいものだったことも大きいと思います。
そんな秀吉の思惑を知ってか知らずか、秀家と豪の仲は睦まじかったと言われています。子供にも恵まれ、やがて57万石の大名の妻になった豪は、幸せそのものでした。
しかし、慶長3年(1598)8月、秀吉が没すると、後ろ盾を失った宇喜多家では内紛が起きます。そんな状態で迎えた関ケ原の戦い。秀家の与した西軍は負けを喫し、秀家は徳川方の目を避けて逃げ続けます。一時は薩摩に匿われたものの、島津家が秀家の存在を隠し通せなくなり、江戸へ連行された秀家と息子二人は八丈島へ流罪となりました。
命だけは助けてもらったものの、夫にも子供にも一生逢えないことを覚悟した豪の気持ちは、いかばかりかと思います。
豪は受洗してキリスト教徒になりました。救いを求めたくなる気持ちもわかります。
金沢に戻った豪は、八丈島で暮らす夫と息子を支援しつつ、娘の世話などをして暮らしました。
豪より6歳下の七女・千世は、細川忠興の嫡男・忠隆に嫁ぎます。お互いに手をとりあって、戦国の世を乗り越えていこうという、両家の思惑による婚姻だと思います。
うまくいくかに思えた結婚ですが、忠興が上杉征伐に出かけて留守にしていた際、石田三成が諸大名の妻たちを人質にとろうと画策します。それを拒んだのが、千世にとっては姑にあたるガラシャです。
ガラシャは大坂城へ入ることを拒み、家臣に介錯させ、命を落とします。千世は豪の住む宇喜多邸に逃れるのですが、これが忠興の怒りをかい、忠隆と離縁させられてしまうのです。
傷心の千世は金沢へ帰り、前田家の重臣・村井長次に再嫁します。落ち着いたひとときも束の間、8年後に夫の長次は死亡。千世は30代で未亡人になってしまいました。
麻阿、豪、千世以外にも娘たちはいましたが、少し前か後の時代に生まれていたり早死にしてしまったり……。ですので前田家が生き残りをかけた戦いに巻き込まれたのは、この三人と言えるでしょう。
更新:11月24日 00:05