江戸時代の結婚観で考えますと、嫁いだ女性は婚家の人、という印象があります。しかし戦国時代は、娘たちは結婚しても実家とつながりを持っていました。
もちろん、嫁いだ先で子を産み、婚家を守り立てていく使命はありましたが、実家とのつながりも疎かにはしなかったのです。
前田家には資料がたくさん残っているのですが、利家の妻まつは、子供たちがいくつになっても、どこへ嫁いでも常に気にかけ、手紙であれこれ指南しています。娘たちの方も、実家にとって必要な情報は手紙や人を介して、知らせていたと思います。
結婚した姉妹が連絡をとりあい、助けあうことも、当然のことながらあったでしょう。細川邸が三成の軍勢に囲まれたとき、麻阿と豪が協力して、千世を助け出していることからみても、連絡をとりあっていたことは明らかです。
前田家の女たちのチームワークが、まつを中心にしっかりと形作られていた、と考えていいのではないでしょうか。
前田家が格別だと思うのは、娘の嫁ぎ先からだけではなく、情報が集まる京都に早くから着目し、様々な人脈を築き、情報を得ていたことです。
前田家は三代・利常以降、文化政策を行なったとして有名ですが、戦国時代から京都の公家や文化人と交流していました。
立ち位置が難しい時代に正しい判断をするには正確な情報が不可欠で、それが京に集まっていることを、利家は知っていたのです。
前田家が加賀百万石の礎を築いたのは、三代・利常に珠姫を迎えたことによります。珠姫は二代将軍・徳川秀忠の次女で、この結婚には家康の意向があったと思います。
徳川の世になり、石高の大きい外様大名が潰されていくなか、前田家が大大名のまま幕末まで存続できたのは、珠姫を迎え入れたのをきっかけに、常に徳川家を立て、結びつきを強めていったことが大きいのではないでしょうか。
二代・利長は40代で隠居し、まだ若く、しかも母の違う利常を三代に据え、珠姫を迎えました。家康の意向に全面的に従う姿勢を見せたのです。利常と珠姫には子供が何人も生まれているので、夫婦仲はよかったと思われます。
その後も、徳川家と前田家の婚姻は続きます。江戸時代になっても、家を潰されないための戦いがあり、政略結婚は重要な手段だったのです。
こうしてみてくると、前田家の人々は危機管理意識が発達していたと言えるのではないでしょうか。利長の言動からは、疑われないように慎重に慎重に事を進めていることがよくわかります。
繰り返しになりますが、三代・利常に珠姫を迎えられたのも、家康が気にするほど前田家が力を持つようになったからで、その前田家を支えていたのは、まつと娘たちだということを、私は声を大にして言いたいと思います。
参考資料︰『前田家三代の女性たち』(二木謙一監修、國學院大學石川県文化講演会実行委員会編、北國新聞社)、『図録 芳春院まつの書状』(前田土佐守資料館)、『文筥 剱梅鉢に生きた女人たち』(横山方子著、能登印刷出版部)ほか
【諸田玲子PROFILE】作家。静岡県生まれ。上智大学文学部英文科卒。1996年、「眩惑」でデビュー。2003年、『其の一日』で吉川英治文学新人賞、2007年、『奸婦にあらず』で新田次郎文学賞、2012年、『四十八人目の忠臣』で歴史時代作家クラブ賞作品賞、2018年、『今ひとたびの、和泉式部』で親鸞賞を受賞。その他の作品に、『麻阿と豪』『帰蝶』『美女いくさ』『ちよぼ──加賀百万石を照らす月』などがある。
更新:11月22日 00:05