2018年02月06日 公開
2019年01月24日 更新
元暦元年2月7日(1184年3月20日)、一ノ谷の合戦が行なわれました。奇しくも清盛逝去からちょうど3年後、平宗盛率いる平家軍は「鵯越の逆落とし」で有名な、源義経の奇襲攻撃によって、源氏軍に大敗します。
この前日、平家一門は福原において、清盛の法要を営んでいました。そこへ後白河法皇より源平の争いを停止するよう和平勧告があり、平家一門はこれを信じたがために守りが手薄となって、義経の奇襲を許したという説があります。
それはともかく一ノ谷付近まで進出した義経は、軍勢の大半を軍監の土肥実平に預け、海側の西城戸方面から攻めることを命じ、自らは僅かな手勢で平家軍背後の断崖絶壁を駆け下りることを決しました。義経は鹿がこの谷を越えることを聞き、「鹿が通えるのであれば、馬も通えよう」と言ったと『平家物語』は記します。
折しも土肥勢の攻撃が始まり、さらに東からは義経の兄・範頼の軍勢も平家軍に挑みますが、堅固な陣を敷く平家軍を攻めあぐねます。頃はよしとみた義経は、絶壁を騎馬で駆け下り、平家軍の背後に突入、予想もしなかった場所から現われた敵に平家軍は大混乱に陥り、平忠度をはじめ多くの有力武将を失いました。その中には、まだ少年の平敦盛の姿もありました。
敦盛は嘉応元年(1169)、平清盛の弟・経盛の末子(3男)に生まれました。幼い頃から笛が上手く、祖父・平忠盛が鳥羽法皇より賜ったという「小枝(さえだ)」(一説に「青葉」とも)の笛を譲り受けていました。
一ノ谷の合戦時、敦盛は16歳。従五位下ながら官職には就いていなかったことから、「無官大夫(むかんのたゆう)」と称されていたといわれます。 敦盛は平家一門として一ノ谷の合戦に参加していました。小枝の笛を錦の袋に入れて腰に差し、
「練貫(ねりぬき)に鶴繍(ぬ)うたる直垂(ひたたれ)に、萌黄匂(もえぎにおい)の鎧着て、鍬形(くわがた)打ったる兜の緒をしめ、金(こがね)作りの太刀を佩(は)き、二十四指(さ)いたる切斑(きりゅう)の矢負い、滋藤(しげどう)の弓持って連銭葦毛(れんせんあしげ)なる馬に金覆輪(きんぷくりん)の鞍置いて…」(『平家物語』)
といういでたちです。
やがて、義経の奇襲が成功して平家方が総崩れとなると、敦盛は郎党らとはぐれてしまい、やむなくただ一騎、沖の船を目指して馬を泳がせます。ところがそこへ、
「大将軍と見参らせ候え。敵に背中を見せるとは卑怯なり」
と声をかけた者がいました。源氏方の武蔵武士・熊谷次郎直実です。
敦盛にすれば、挑発的な言葉を無視して、沖の船に向かうこともできました。しかし彼は、武士の誇りを捨てて生き延びるよりは、己の武士の名を惜しむことを選びます。 海から取って返し、熊谷直実に勝負を挑んだ敦盛は、波打ち際で直実に組み付かれ、落馬します。
取り押さえた直実が首を掻こうとしてよく見ると、相手はまだ16、7の紅顔の美少年。自分の息子ほどの年齢です。さすがの直実も哀れに思い、手にかけることをためらいました。しかし、その背後には、すでに土肥、梶原ら味方の軍勢が迫り、直実を注視しています。もし、直実が見逃した.としても、すぐに別の者が襲い掛かることは明白でした。
逡巡する直実に敦盛は、自分が誰であるかは名乗らずに「お前のためには良い敵である。名乗らずとも首を取って人に見せよ。さあ首を取れ」と促し、直実は「ならば我が手にかけ、後の菩提を弔い申そう」と、泣く泣く敦盛の首を掻き切りました。
やがて敦盛が腰に差していた小枝の笛によって、直実は自分が討った少年が敦盛であったことを知ります。これを機に、直実は武士の生業に虚しさを覚え、出家することになります。 この敦盛を題材にした幸若舞『敦盛』の一節を、織田信長が好んだことはよく知られています。
かくして一ノ谷の戦いは源氏の圧勝に終わりました。しかし、総大将の宗盛は脱出に成功し、戦いは屋島へと舞台を移すことになります。
更新:11月22日 00:05