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悪源太こと源義平の最期~お前のしゃっ面に食いつくぞ!

2018年01月25日 公開
2018年12月25日 更新

1月25日 This Day in History

今日は何の日
 

悪源太こと源義平が処刑

今日は何の日 永暦元年1月25日

永暦元年1月25日(1160年3月4日)、悪源太こと源義平が処刑されました。 義平は源義朝の長男で、頼朝や義経らの異母兄にあたります。

悪源太の悪は「悪者」ではなく、「荒く猛々しい」という意味です。実際、剽悍無類であり、関東で叔父の義賢と戦い(大蔵合戦)、少数でこれを攻め滅ぼしたのが15歳の時。義賢は木曾義仲の父であり、この騒ぎで義仲は信州へ落ち延びます。

悪源太の武勇がいかんなく発揮されるのは、平治元年(1159)の平治の乱の折です。保元の乱の後に強大な実権を握った藤原信西に対し、藤原信頼を中心に反信西派が形成され、源義朝もそれに連なりました。そして平清盛の熊野参詣の留守をついて義朝らが挙兵、信西を殺害するとともに、関東にいた義平に援軍を要請します。

東国の武士を引き連れて上洛した義平は、信頼らを謀叛人とした清盛らと激突。内裏で敵を迎え撃つ19歳の義平は、500騎で攻め寄せた清盛の嫡男・重盛勢の中央に17騎で突撃し、これを蹴散らします。さらに500騎の新手を得て重盛が再び攻め寄せると、またも17騎で散々に打ち破り、義平自ら重盛を追い回して、重盛は辛うじて逃げ延びました。

機に乗じ、義平一党は清盛のいる六波羅に攻めかかり、出馬してきた清盛を襲いますが、さすがに疲労の色が濃く退却。戦い自体も源氏の敗北となり、義平は父義朝や弟頼朝らとともに東国へ落ちますが、父の命により信濃方面で再挙の軍勢を募るために別れたところ、義朝は尾張で騙し討ちにあいます。

父の非業の報せに義平は、仇を討つべく単身京に戻り、清盛・重盛を狙いますが、義平潜入の情報に平家側は震え上がり、厳重な警戒を敷いていたため捕らえられ、六条河原で処刑されました。

首を打たれる際、斬り手の難波経房に「下手な斬り方をしたら、しゃっ面に食いつくぞ」とうそぶき、経房が「斬られる者ができるものか」とせせら笑うと、「いま食いつくのではない。あとで雷神となって蹴殺すのだ」と言い残しました。

悪源太義平、享年20。8年後、経房は落雷で死んだといわれます。

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