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開国の地「浦賀・久里浜」で時代考証家が触れた幕末維新の遺風

2023年10月09日 公開

山村竜也(時代考証家・作家)

 

のどかな雰囲気の浦賀の渡し

浦賀の渡し
浦賀の渡し

浦賀の東岸と西岸は、小さな渡し船で結ばれています。享保年間(1716〜36)から運航されていたもので、当時は船頭が櫂で漕ぐ木製の小舟でした。現在は、江戸時代に貴人が乗る御座船をイメージした動力船に変わりましたが、定員はわずか12人で、小型船であるところは同じです。

船が対岸にいる時は、呼び出しボタンを押すとすぐに来てくれて、東岸と西岸の間を約3分で渡します。のどかな雰囲気と、頰に受ける潮風が気持ちよく、あっという間に対岸に着いてしまうのが惜しいほど。

数年前に初めて乗って感動した私は、浦賀に行くならば渡し船に乗ることを皆さんにお勧めしています。幸いに東岸にも西岸にも史跡があるので、史跡めぐりのルート的にも無駄がない。浦賀の渡しは、私のイチ押しの史跡なのです(料金は大人片道400円)。

 

多くの艦船が造られた浦賀ドック

浦賀ドック
浦賀ドック

浦賀西岸最大の史跡といえば、浦賀ドックです。

安政元年(1854)、中島三郎助の指揮で日本初の洋式軍艦・鳳凰丸が浦賀で建造されました。当時は長川(現在は暗渠)の河口で造船しており、渡米直前の咸臨丸の整備点検もそこで行なわれました。

その後、小栗上野介 (忠順)の建言で横須賀に製鉄所が建設されることが決定、軍艦建造の中心地は横須賀に移り、浦賀の造船所は明治9年(1876)に閉鎖となります。

しかし、榎本武揚らが中島の遺志を継ぎ、明治30年(1897)、再び浦賀の地に「浦賀船渠」として造船所を建造しました。ここでは明治から昭和にかけて多くの艦船が造られ、平成15年(2003)に閉鎖されるまで現役の造船所として稼働しました。

浦賀船渠の遺構は、「浦賀ドック」の名で現在も残っており、通常は非公開ですが、イベントなどの一般開放日には特別に公開されています。世界でも珍しいレンガ造りのドックは見た目も美しく、アイドルグループ・乃木坂46のPV撮影にも使用されたとのこと。

私も特別にドック底辺まで降りる許可をいただき、レンガに囲まれた歴史的なドックの趣きを堪能することができました。

 

海防のために設置された千代ヶ崎砲台跡

浦賀西岸の南端、平根山には幕末に会津藩によって海防のための台場が築かれていましたが、明治28年(1895)には同所に「千代ヶ崎砲台」の名で陸軍の砲台が築造されました。

標高約65メートルの山上には、3つの砲座が南北に並び、各砲座に二門ずつ榴弾砲が設置されていました。砲座および地下施設などが築造当初の姿を良好にとどめていることから、猿島砲台跡とともに東京湾要塞跡として国史跡に指定されています。

バス停「燈明堂入口」から山道を徒歩15分と、アクセスは楽ではありませんが、土日、祝日には一般公開されているのが有難い。一歩踏み込んだらまるでタイムスリップしたかのような、ドキドキ感一杯の史跡なのです。

浦賀・久里浜の史跡をめぐっていて嬉しいのは、いつも視界のなかに海があり、潮風を感じながら歩くことができるところです。幕末ファンならもちろんのこと、それ以外の方も、「日本の開国の地」を一度訪れてみてはいかがでしょうか。

 

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