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開国の地「浦賀・久里浜」で時代考証家が触れた幕末維新の遺風

2023年10月09日 公開

山村竜也(時代考証家・作家)

 

浦賀奉行所跡と中島三郎助の墓

浦賀奉行所跡
浦賀奉行所跡

享保5年(1720)、8代将軍徳川吉宗の時代に設けられた浦賀奉行所は、江戸時代後期には、浦賀沖に近づく外国船の対応という大きな役目をにないました。奉行所の建物は残念ながら現存せず、広い敷地の周囲にめぐらされた堀の石垣を残すのみになっています。

ペリー来航の際に、艦隊を応接した与力の中島三郎助は、奉行所のなかでも有数の傑物でした。幕府の長崎海軍伝習所で勝海舟や榎本武揚らとともに修業し、その後は築地の軍艦操練所で海軍の人材を育てています。

江戸無血開城後の慶応4年(1868)8月に榎本が旧幕府艦隊を率いて箱館に脱走した時には、ともに新政府軍に徹底抗戦を挑みました。

しかし翌明治2年(1869)5月16日、榎本軍が降伏する直前に、長男恒太郎(22歳)、二男英次郎(19歳)とともに突撃して戦死をとげる激烈な生涯を送りました。享年49。

三郎助と二人の子の墓は、中島家の菩提寺である浦賀東岸の東林寺の境内にあります。墓の案内板がないため、少々わかりにくい場所ですが、墓域には中島家の一族の墓石が互いに向かい合うように並んでいます。

一般にはあまり知られていない史跡なので、幕末維新を彩った英傑の一人として、中島三郎助の墓にはもっと多くの人に参ってもらいたいものです。

 

勝海舟断食の東叶神社

東叶神社
東叶神社

浦賀の東岸には、勝海舟が断食した場所と伝わる「東叶神社」もあります。正式名称は「叶神社」ですが、浦賀の西岸にも叶神社があり、区別のためにそれぞれ東・西をつけて呼ばれています。

万延元年(1860)1月、咸臨丸でアメリカに渡るために浦賀まで来た勝海舟は、航海の成功を祈ってこの東叶神社の境内で水垢離し、さらに裏山に登って断食したといわれています。その甲斐あってか、勝は咸臨丸艦長として日本人初の太平洋横断という快挙をなしとげることができました。

社務所の裏手には「勝海舟断食修行の折使用の井戸」が残っており、山頂には「勝海舟断食之跡」の碑が建てられています。

ちなみに私は、同神社で授与される「勝海舟ゆかりの勝守」が気に入っています。荒波のごとき困難を乗り越えた勝海舟のように、あらゆる試練、勝負ごと、そして人生に勝つという御利益のあるお守りです。

私は以前から持っていましたが、今回の訪問にあたり、もう一つ買い求めてしまいました。これで勝にあやかって、さまざまな試練を乗り越え、人生の大事な局面に勝ちたいと思っているのですが──。

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