2023年10月09日 公開
千代ケ崎砲台跡
嘉永6年(1853)、ペリー率いるアメリカ艦隊が来航。舞台となった横須賀市の浦賀と久里浜には、アメリカ艦隊に対応した浦賀奉行所跡や、ペリー上陸記念碑など、幕末維新の遺風に触れられる史跡が数多く残されているのです。現地を訪ね歩いた時代考証家・山村竜也氏が、その見どころをご案内します。
山村竜也(時代考証家・作家)
昭和36年(1961)、東京都生まれ。中央大学卒業。NHK大河ドラマ『新選組!』『龍馬伝』「八重の桜』、NHK・BS時代劇『小吉の女房』『赤ひげ』などの時代考証を担当する。著書に『世界一よくわかる幕末維新』『幕末武士の京都グルメ日記』など多数。
ペリー記念館
幕末にペリー率いるアメリカ艦隊が来航したことで、「日本の開国の地」と呼ばれるようになったのが、相模の浦賀と久里浜でした。
ペリー艦隊が浦賀沖に姿を現わしたのは、嘉永6年(1853)6月3日のこと。彼らの目的は、鎖国政策をとっていた日本を開国させ、和親、交易を結ぶことにありました。
なぜ浦賀沖にやってきたのかというと、江戸湾の出入り口にあたる浦賀には奉行所が置かれ、船番所が併設されており、ここを通る船はすべて検問を受けなければならなかったのです。
艦隊は蒸気船のサスケハナ、ミシシッピ、帆船のサラトガ、プリマスの4隻。巨大な船体が黒く塗装されていたことから、日本の人々はこれらを「黒船」と呼んで恐れました。
この黒船に小舟に乗って近づき、旗艦サスケハナに乗艦してアメリカ側と初めて接触したのは、浦賀奉行所与力の中島三郎助でした。ペリーには会えなかったものの、副官のコンティと通訳を通して会話し、フィルモア大統領の国書を日本の将軍に渡したいというアメリカ側の要求を聞き取っています。
数回のやりとりの末、日本側は国書を受け取ることを決め、浦賀にほど近い久里浜に応接所を特設。6月9日に300人の米兵を従えたペリーが上陸し、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道が対面して国書を受理しました。
その後、ペリー艦隊はいったん日本から退去しますが、翌年再来航し、両国の間で日米和親条約が締結されます。鎖国政策に終止符が打たれ、日本はついに開国したのです。
現在、久里浜のペリーらの上陸地には、「北米合衆國水師提督伯理上陸紀念碑」と刻まれた、高さ5.25メートルの巨大な記念碑が建てられています。
一帯は「ペリー公園」として整備され、敷地内には「ペリー記念館」も設置。入館料は無料で、ペリー来航に関する史料や黒船の模型などの展示があり、開国の歴史にふれることのできる嬉しい施設となっています。
更新:11月21日 00:05