2023年09月27日 公開
壬生新選組屯所八木邸(京都市)
文久3年(1863)、江戸から将軍警護の名目で上洛した浪士組。のちの新選組は、京都の人々にどのような 印象を与えたのだろうか。同時代の人々が語る初期の新選組の姿を、史料から探る。
※本稿は『歴史街道』2023年9月号の特集2「誕生から160年 新選組・草創期の真実」から一部抜粋・編集したものです。
山村竜也(歴史作家・時代考証家)
昭和36年(1961)、東京都生まれ。中央大学卒業。NHK大河ドラマ『新選組!』『龍馬伝』『八重の桜』、NHK・BS時代劇『小吉の女房』『赤ひげ』などの時代考証を担当する。著書に『世界一よくわかる新選組』『幕末武士の京都グルメ日記』など多数。
文久3年(1863)3月、新選組(壬生浪士)は京都の壬生村に誕生する。彼らと最初に接したのは、屯所とされた壬生村の八木家の人々だった。当時13歳の少年だった八木為三郎は、新選組と出会った頃のことを後年こう語り残している。
近所の人へは乱暴なんかしませんでしたが、ちょっとした口の利き方や往来の歩き方でも何となく乱暴なので、みんな恐がっていました。しかし、京都の町の人が、「壬生浪、壬生浪」といって、身ぶるいしていたほど恐い人達でもなく乱暴でもなかったのです。暇な時には、若い隊士なんかは子供を相手にして日向ぼっこをして遊んでいたものでした。(子母澤寛『新選組遺聞』所収)
京都の一般の人々にとっては、やはり新選組は身ぶるいするほど恐い存在だったようだ。強面で市中を闊歩する彼らの姿を見れば、それも当然のことだっただろう。
ただし、屯所として彼らを迎え入れていた八木家の者にとっては、決して恐ろしい存在ではなく、非番の日には子供を相手に日向ぼっこをして遊んでいる、ごく普通の若者たちだったのである。
八木為三郎によれば、早くから八木家の門柱には新選組の屯所であることを示す表札が掲げられていたという。
私の家の門の右の柱に、幅一尺長さ三尺位の檜の厚い板で、松平肥後守御預新選組宿という新しい標札を出しました。(略)これをかけると、沖田総司だの、原田左之助なんかが、その前へ立って、がやがや云いながら、しみじみ眺めて喜んでいました。(前掲書所収)
幕府浪士組に加わって上洛したものの、京都に残留して会津藩に雇われた彼らの喜ぶ姿を、為三郎は印象深く記憶していたのだった。22歳の沖田総司、24歳の原田左之助といった若い者たちが特に盛り上がっているあたりが微笑ましい。
ただ、3月の時点ではまだ新選組という隊名は与えられていないため、その点では為三郎の記憶に誤りがあったようだ。実は同年の8月に八木家門前の表札が目撃された記録があり、そこにはこう記されている。
文久三亥八月、壬生止宿の浪人、門の横に、
松平肥後守御預浪士宿
(蓬左文庫所蔵「聞書」)
この時点では「壬生浪士」と名乗っていた彼らだが、表札には単に「浪士」とだけ記されていたというのである。もっとも「壬生浪士」という隊名は、土地の名をつけただけの暫定的な名称とも解釈でき、表札に「浪士」とだけあるのは不自然なことではない。
おそらく表札の文字は、9月頃に新選組という隊名が会津藩から与えられた時に、「新選組宿」と書き替えられたのだろう。為三郎が記憶していたのは、それ以降の表札の文字であったに違いない。
新選組の姿は、彼らを雇っていた会津藩の者からはどう見えていたか。藩士広沢富次郎の手記には、4月21日に将軍徳川家茂が京都から大坂に下った際に、道中警護をつとめた彼らのことが記録されている。
わが公に附属せる処の浪士弐拾人余り、将軍の下阪したまえるに扈従し、(略)浪士、時に一様の外套を製し、長刀地に曳き、あるいは大髪頭を掩へ、形貌甚偉しく、列をなして行く。逢う者みな目を傾けてこれを畏る。(「鞅掌録」)
地面に引きずるような長い刀を帯び、髷を大きく結い、威圧的な容貌で隊列を組んで進む彼らを見て、人々はみな恐れて目をそむけたという。
どうやら彼らは、警護の列のなかで他の武士たちに埋もれてしまわないように、ひときわ目立つことを意識していたようだ。会津藩の傘下に入り、京都の治安維持のために働くことになった浪士結社の新選組にとっては、そうした対外的なアピールが必要とされたのだろう。
彼らが「一様の外套」を着用していたというのも、その一環だった。これはよく知られている新選組の隊服のことで、この日の将軍警護の任務に間に合わせるように作製されたものだ。
デザインについては、八木為三郎が詳しく語り残している。
隊服というのがありました。浅黄のうすい色のぶっさき羽織で、裾のところと、袖のところへ白い山形を赤穂義士の装束のように染抜いてあるのですが、大きな山で袖のところは三つ位、裾が四つか五つ位でした。(『新選組遺聞』所収)
「浅黄」は正しくは「浅葱」と書き、薄い青系の色である。時代劇でよく見る新選組の青い羽織は、確かに隊服として当時着用されていたのだ。
ただし、印象的な山形模様は為三郎の談話では袖と裾にあしらわれていたとされているが、それ以外の記録では袖だけに入っていたことになっている。隊士永倉新八も、維新後の回想録で、
浅黄地の袖へ忠臣蔵の義士が討ち入りに着用した装束見たように、段々筋を染め抜いた。(『新撰組顚末記』)
と語っており、山形模様は「袖」だけであった可能性が高いだろう。
なお、この山形模様の形状について、近年興味深い史料が発見されている。文久三年八月十二日、局長芹沢鴨が献金を断られた腹いせに、三十余人の隊士を引き連れて葭屋町一条の商家大和屋を焼き討ちする事件があったが、彼らの姿を目撃した記録が残っていたのだ。
浪人者、白鉢巻白筒袖にて袴はきたる者三、四十人。
一、鼠色割羽織、袖印白にて△△此の如く したる者三、四十人
(「京都返達御用状控」)
彼らの羽織には白く山形模様が入っており、その形状が△△と図示されているのである。従来伝えられていた山形模様の形を裏付ける、貴重な史料といっていい。浅葱色であるはずの羽織の色が鼠色とされているのは、夜間であったためにグレーっぽく見えたものだろうか。
当日の狼藉は、松代藩士の片岡春煕も目撃しており、次のように記録に残している。
壬生の浪人三十六人(壬生には平生六、七十人居り候よし)、いずれも白はち巻、たすきにて袴を高く上げ抜き身を持ち、蔵の廻りをまわり板切れ等を持ち、火をつけ居り候(略)、朝五ツ頃より夜九ツ時頃まで毀ち居り、それより諸道具諸品を焼き払い、立ち去り候よし。誠に目も当てられざる事どもに御座候。(「莠草年録」)
芹沢らの行為はあまりに乱暴だった。事態を重く見た松平容保は近藤勇を呼び、芹沢を処分するように指示したと伝えられる。
更新:11月21日 00:05