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当時の人は新選組をこう見ていた! 同時代史料に見る初期の姿

2023年09月27日 公開

山村竜也(歴史作家・時代考証家)

 

近藤勇と芹沢鴨の人となり

近藤と芹沢、2人の局長について、人々はどのように見ていたか。会津藩士の鈴木丹下は、八月十八日の政変に出動した時の両局長について、こう記録している。

近藤勇という者は智勇兼ね備わり、何事の掛け合いに及び候ても、滞りなく返答いたし候者のよし。芹沢鴨と申す者はあくまで勇気強く、梟暴の者のよしにて、配下の者おのれが気に合わざる事これあり候えば、死ぬほど打擲いたし候事などこれあり候よし。しかしいずれも才力勇気を以て大将とあがめられ候事ゆえ、誰も違背に及ぶ者これなきよしに候。(「騒擾日記」)

鈴木の記録は、近藤と芹沢の個性を的確に把握しており、しかも2人とも大将として人望を得ていたことまで書いていて秀逸だ。こうした彼らの評価は、八木家の為三郎の談話にもみられる。  

芹沢は乱暴で、割れるような大きな声で隊士を叱りとばしたり、私の門内で足駄で蹴飛ばしたりしたのを見ましたが、近藤はそんな事をせず、黙っているのに、隊士たちはかえってこれを怖がっていると、父がいっていました。(『新選組遺聞』所収)  

為三郎も、近藤と芹沢のキャラクターを鈴木とほぼ同様にとらえており、2人はよほど濃厚な個性の持ち主であったということだろう。現代の私たちが彼らに抱いているイメージとも遜色がない。

 

目撃された土方歳三の姿?

八月十八日の政変での活躍により、京都市中の特別警察隊として広く認知されるようになった彼らは、23日、筑前浪士平野国臣の追捕に出動する。三条の旅籠・豊後屋に踏み込んだところ、平野は不在で取り逃がしたが、大和天誅組の一味である古東領左衛門を捕縛することができた。

この時、豊後屋の2階には堀真五郎、時山直八、品川弥二郎という3人の長州藩士が潜伏しており、新選組の訊問を受けていた。堀の手記には、当日の新選組とのやりとりが詳細に記録されている。  

旅亭の伴(番)頭来たり告げて云う、壬生の浪士来たり、各室ことごとく検分すべしと云う、案内せざるべからず、差し支えなきやと。余(堀)云う、差し支えなしと。伴頭再び入り来る。多数相続いて階を登り来たらんとす。前頭の一人、制して云う、数人にて可なりと。長面、色白にして脊高く、火事装束を著けたる者、膝を敷居の内に突き問うて云う、何れの御藩なりやと。余答えて云う、長藩なり、御覧の如く病者あり、看護の為め滞京する者なり。(「伝家録」)  

驚いたことに、堀真五郎は自分たち3人の身分を長州藩士と明かしたというのだ。時山直八が病気だったのは事実で、そのために滞京しているというのはあながち噓ではなかったため、彼らはなんとか窮地を逃れることができた。目の前の新選組に訊問を受けながら、いつ斬りかかられるかと生きた心地がしなかったに違いない。

興味深いのは、この時の新選組の指揮官が、「長面、色白にして脊高く」と記されていることだ。これが誰であったのかはわかっていないが、色白で知られた隊士といえば、いうまでもなく土方歳三である。土方は顔も長いほうであり、身長も五尺五寸(約167センチ)あったから、当時としてはすらっとした長身だ。

この指揮官は、まさしく土方だったのではないだろうか。敵である堀に、わざわざ容姿を記録しようと思わせるほど目立つ武士。それは、「役者のような男」(八木為三郎談)とまでいわれた美男、土方歳三にほかならないと思えるのである。

そんな土方が、敷居の内側に片膝をついて踏み入り、長州の者たちに「いずれの御藩なりや」と訊問する姿はさまになっていて、まるで良質の時代劇を観ているかのようだ。

幕末の京都に、突如として現れた剣客集団・新選組──。これまでに接したことのない強烈な個性の男たちに対し、人々はとまどいながらも、動乱の時代が生んだダークヒーローとして受け入れていったのである。  

 

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